和尚さんの法話 「生死の里に生れ来て」
生死の里に生まれ来てというお話ですが、これは弘願讃(ぐがんさん)という和讃でどの宗派にもあるのですが、こういう詩を作るのが得ての坊さんが仏教の教えを詩に作ったのです。
そしてまたフシの付けるのが得ての人はフシをつけたのです。
そして儀式のときにこれを織り込んで使うことがあるのです。
その中になになに和讃、なになに和讃というのがあるわけです。
これは弘願讃といいます。
一、
「生死の里に生まれ来て、生死を悟る人は無く、無常の境に住む者も、無常を知れる事ぞ無き。
三界火宅と説き置けど、驚く人こそ無かりけり、苦悩の娑婆に身を置きて、楽しむ心ぞ憂かりける。」
― 弘 願 讃 ―
生死とは、生まれる者と死ぬ者ということです。
いったいこれはどういうことなのかと。
死ぬということはどうなるのか。
死んだらどうなるのか、ということを知らないと。
この世の中は生まれたり死んだり生まれたり死んだりと、そればっかり繰り返している世界ですね。
生まれては死に、生まれては死に、我々はこの世へ何遍生まれてきているか分からないのです。
一遍や二遍と違う、何遍も生まれてきているんですよ。
それを知らないんですね。
生ということはどういうことなのか、死ぬということはいったいどうなるのかということを知らない。
「無常の境に住む者も、無常を知れる事ぞ無き。」
と、こうあるのですが、無常というのは常無しと書いていますが、仏教では常というのは一つの状態がずーっと同じ状態が続いていって変化が無いと、そういう言葉を常住といいます。
無常ということは、生死の世界に我々は生まれてきて、生まれるということはどういうことなのか、死ぬということはどういうことなのかということを知らない。
この世の中は無常だと、常が無い。刻々と変化するわけですね。
子供の頃は時間のたつのが遅いと思っていましたが、年をとると年々に早く感じます。
年々刻々に変化していくのを無常と、常無しというわけです。
「三界火宅と説き置けど、驚く人こそ無かりけり、」
三界というのは、欲界、色界、無色界と、これを迷いの世界といいますね。
一番下が欲界で次が色界で、一番上が無色界。
無色界を超えたらもう悟りの世界なんです。
三界火宅という言葉があるんですね。火の家。
これはお経の中に、お釈迦様が三界火宅の例えを説いてらっしゃるのがあるのですけれども、例えば屋敷の中で子供がおもちゃを持って遊んでいるんです。
ところが家の外側から燃えているということを知らない。
やがてこの家は燃えてしまうのも知らずに子供がおもちゃを持って遊んでいるという例えの話です。
我々が、この世のことを知らずに生活をしているのは、ちょうど子供が火が燃え盛ってやがて燃え尽きてしまう屋敷の中でそれを知らずに遊んでいるというのと同じだというのです。
三界火宅。それはもう仏様の目から見たらこの世は火宅なんだということです、無常なんだと、いつまでも居たいと思っても居られないということですね。
「苦悩の娑婆に身を置きて、楽しむ心ぞ憂かりける。」
この世の中というのは一般の人はこの世の中はいい所だ、寂しいときとか悲しいとか、苦しいとか言っても死んだら終いだと思っているんですね。
ところが、悟りの人の眼から観たらあの世には救いの世界があるけれどもこの世は迷いの世界ですわね。
そしてこの世は火が燃え尽きていく屋敷と同じなんだと、三界火宅なんだとお釈迦様がそうおっしゃっているのです。
ところが誰も驚かない。
我々は火宅のような世界に住んでいるんだという何も反省も無い。
一般の人は、この世はいい所だ、死んだらまたこの世へ生まれてきたらいいと、死んだら寂しいことだと思うだけで、死んだら終いと思っているんですね。
あの世があるんだということを思わないんですね、死んだら終いだと思っているわけです。
今の世間の人々はほとんどそうだろうと思うのです。
この世の世界は、仏の目から見たら苦しみだらけの世界でいろんな苦しみがあるわけなんですね。
自分とことになかったら外から来るし、いろんな苦しみがあるわけです。
今日はなにがあると、楽しむことばかり考えているんですね。
この世というところは恐ろしいところだ、火のついている屋敷のようなものだという反省が無いという嘆きを詩に歌ったものです。
だからこの世というところは、いずれ我々は死ぬんだと、今日長生きになって百歳の人も出て来ましたけれども、その人だって死ぬんです。
いずれは無常で死んでいくんだけれども、その反省が無いということですよね。
誰も死んで行くんだということを反省しない。
それは、死んだらどうなるということが分からないからですね。
死んだらあの世はどうなっているんだということの認識が無いということですね。
二、
「我未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」
― 孔 子 ―
これは弟子が、孔子に聞いているんですね。
先生、人間は死んだらどうなるのですかと、質問をしたんですね。
そのときの答えなんです。
生きるということは知らないと。
生きていることさえ知らないのに死んでからのことは知らないと答えたんですね。
孔子のような偉い学者でもあの世のことは全く知らなかったんですね。
然し、孔子は善い行いをしていますね。
善い教えを説いて、善い行いをしてそういう一生を送った人ですから信仰は無かったけれども、いい所へは行っていると思うんです。
死んで、あの世で地獄や餓鬼へ行ってない、いい所へ行っていると思うんです。
三、
「三界の狂者は自ら狂わせる事を知らず。四生の迷人は自ら迷える事を知らず。生まれ生まれ生まれ生まれて生の初めに冥く、死に死に死に死んで死の終わりに昏し。」
― 弘法大師 ―
我々は悟りを開いた方から見たら気違いだというんですね。
我々はこの世の中は当たり前だと思っていても悟りの目から見たら違ってるんですね。
尋常じゃないと。それを当たり前のように思ってると。
四生というのは、生まれるのに卵で生まれるのと、身体から生まれるのと、湿生というのと、化生という四とうりの生まれ方があるんですね。
兎に角、この世へ生まれてきたものは迷ってるんだけれども、その迷いということを知らない。
我々は生死というのを繰り返してるわけなんです。
生まれたり死んだり、生まれたり死んだりとね。
何遍この世へ生まれてきてるか、無数に生まれてきてるけど我々は自覚が無い。
これは悟ったら分かるんですけどね。
我々が迷いのときから悟っていったら、長い時間生まれたり死んだりしてきたなと分かるんですけどね。
我々にはそれが分からないですね。弘法大師はそれが分かってたんですね。
四、
「三種の法有り、諸の世間に於いて是れ不光沢、是れ不可念、是れ不可称意なり。何をか三と為す。謂く、老と病と死となり。若し世間に老病死無くんば、如来は世に出でて諸の衆生の為に説く所無し。」
これはなんのお経だったか忘れましたけど、或るお経の一説です。
そしてまたフシの付けるのが得ての人はフシをつけたのです。
そして儀式のときにこれを織り込んで使うことがあるのです。
その中になになに和讃、なになに和讃というのがあるわけです。
これは弘願讃といいます。
一、
「生死の里に生まれ来て、生死を悟る人は無く、無常の境に住む者も、無常を知れる事ぞ無き。
三界火宅と説き置けど、驚く人こそ無かりけり、苦悩の娑婆に身を置きて、楽しむ心ぞ憂かりける。」
― 弘 願 讃 ―
生死とは、生まれる者と死ぬ者ということです。
いったいこれはどういうことなのかと。
死ぬということはどうなるのか。
死んだらどうなるのか、ということを知らないと。
この世の中は生まれたり死んだり生まれたり死んだりと、そればっかり繰り返している世界ですね。
生まれては死に、生まれては死に、我々はこの世へ何遍生まれてきているか分からないのです。
一遍や二遍と違う、何遍も生まれてきているんですよ。
それを知らないんですね。
生ということはどういうことなのか、死ぬということはいったいどうなるのかということを知らない。
「無常の境に住む者も、無常を知れる事ぞ無き。」
と、こうあるのですが、無常というのは常無しと書いていますが、仏教では常というのは一つの状態がずーっと同じ状態が続いていって変化が無いと、そういう言葉を常住といいます。
無常ということは、生死の世界に我々は生まれてきて、生まれるということはどういうことなのか、死ぬということはどういうことなのかということを知らない。
この世の中は無常だと、常が無い。刻々と変化するわけですね。
子供の頃は時間のたつのが遅いと思っていましたが、年をとると年々に早く感じます。
年々刻々に変化していくのを無常と、常無しというわけです。
「三界火宅と説き置けど、驚く人こそ無かりけり、」
三界というのは、欲界、色界、無色界と、これを迷いの世界といいますね。
一番下が欲界で次が色界で、一番上が無色界。
無色界を超えたらもう悟りの世界なんです。
三界火宅という言葉があるんですね。火の家。
これはお経の中に、お釈迦様が三界火宅の例えを説いてらっしゃるのがあるのですけれども、例えば屋敷の中で子供がおもちゃを持って遊んでいるんです。
ところが家の外側から燃えているということを知らない。
やがてこの家は燃えてしまうのも知らずに子供がおもちゃを持って遊んでいるという例えの話です。
我々が、この世のことを知らずに生活をしているのは、ちょうど子供が火が燃え盛ってやがて燃え尽きてしまう屋敷の中でそれを知らずに遊んでいるというのと同じだというのです。
三界火宅。それはもう仏様の目から見たらこの世は火宅なんだということです、無常なんだと、いつまでも居たいと思っても居られないということですね。
「苦悩の娑婆に身を置きて、楽しむ心ぞ憂かりける。」
この世の中というのは一般の人はこの世の中はいい所だ、寂しいときとか悲しいとか、苦しいとか言っても死んだら終いだと思っているんですね。
ところが、悟りの人の眼から観たらあの世には救いの世界があるけれどもこの世は迷いの世界ですわね。
そしてこの世は火が燃え尽きていく屋敷と同じなんだと、三界火宅なんだとお釈迦様がそうおっしゃっているのです。
ところが誰も驚かない。
我々は火宅のような世界に住んでいるんだという何も反省も無い。
一般の人は、この世はいい所だ、死んだらまたこの世へ生まれてきたらいいと、死んだら寂しいことだと思うだけで、死んだら終いと思っているんですね。
あの世があるんだということを思わないんですね、死んだら終いだと思っているわけです。
今の世間の人々はほとんどそうだろうと思うのです。
この世の世界は、仏の目から見たら苦しみだらけの世界でいろんな苦しみがあるわけなんですね。
自分とことになかったら外から来るし、いろんな苦しみがあるわけです。
今日はなにがあると、楽しむことばかり考えているんですね。
この世というところは恐ろしいところだ、火のついている屋敷のようなものだという反省が無いという嘆きを詩に歌ったものです。
だからこの世というところは、いずれ我々は死ぬんだと、今日長生きになって百歳の人も出て来ましたけれども、その人だって死ぬんです。
いずれは無常で死んでいくんだけれども、その反省が無いということですよね。
誰も死んで行くんだということを反省しない。
それは、死んだらどうなるということが分からないからですね。
死んだらあの世はどうなっているんだということの認識が無いということですね。
二、
「我未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」
― 孔 子 ―
これは弟子が、孔子に聞いているんですね。
先生、人間は死んだらどうなるのですかと、質問をしたんですね。
そのときの答えなんです。
生きるということは知らないと。
生きていることさえ知らないのに死んでからのことは知らないと答えたんですね。
孔子のような偉い学者でもあの世のことは全く知らなかったんですね。
然し、孔子は善い行いをしていますね。
善い教えを説いて、善い行いをしてそういう一生を送った人ですから信仰は無かったけれども、いい所へは行っていると思うんです。
死んで、あの世で地獄や餓鬼へ行ってない、いい所へ行っていると思うんです。
三、
「三界の狂者は自ら狂わせる事を知らず。四生の迷人は自ら迷える事を知らず。生まれ生まれ生まれ生まれて生の初めに冥く、死に死に死に死んで死の終わりに昏し。」
― 弘法大師 ―
我々は悟りを開いた方から見たら気違いだというんですね。
我々はこの世の中は当たり前だと思っていても悟りの目から見たら違ってるんですね。
尋常じゃないと。それを当たり前のように思ってると。
四生というのは、生まれるのに卵で生まれるのと、身体から生まれるのと、湿生というのと、化生という四とうりの生まれ方があるんですね。
兎に角、この世へ生まれてきたものは迷ってるんだけれども、その迷いということを知らない。
我々は生死というのを繰り返してるわけなんです。
生まれたり死んだり、生まれたり死んだりとね。
何遍この世へ生まれてきてるか、無数に生まれてきてるけど我々は自覚が無い。
これは悟ったら分かるんですけどね。
我々が迷いのときから悟っていったら、長い時間生まれたり死んだりしてきたなと分かるんですけどね。
我々にはそれが分からないですね。弘法大師はそれが分かってたんですね。
四、
「三種の法有り、諸の世間に於いて是れ不光沢、是れ不可念、是れ不可称意なり。何をか三と為す。謂く、老と病と死となり。若し世間に老病死無くんば、如来は世に出でて諸の衆生の為に説く所無し。」
これはなんのお経だったか忘れましたけど、或るお経の一説です。
作品名:和尚さんの法話 「生死の里に生れ来て」 作家名:みわ