ラプラスの瞳 序章ノ一
「そんなじゃありませんよ、それに直刃は男です」
「あ、そっか! いっけね、忘れてた」
気さくに話しかけてきたのは、日下部桐谷である。彼は、おどけ調子で大げさに驚いて見せた。冗談交じりのいつもの掛け合いだ。打てば響く、と言った感じの、恒例のやり取りなのだ。
なのだが、何度来ても、可愛い子と言われて、顔を赤くするさや、直刃までもが顔を赤らめているのが謎である。
それはさておき、メモリーバンクの職員である日下部桐谷が居れば、いわゆる顔パスが使えるのだ。
桐谷は、柄叉よりいくらか背が高く、耳にピアスをつけた、茶髪の軽薄そうな顔の男だ。そんな容姿には、
「やっぱり、スーツ似合わないですね日下部さん」
と、そんなふうな反応が帰ってくるわけであった。
対して、桐谷は大げさに嘆くのだった。
「柄叉ちゃん、桐谷って、呼び捨てにしろって言ってるっしょ?」
ただし、スーツが似合わないと言われたことではなく、柄叉が未だに自分を呼び捨てにしないことに対して……。この嘆きははっきり言って演技じみているが、不思議と鼻に付く感じはしない。
柄叉は、桐谷の声を無視して、いつもの調子で尋ねる。
「日下部さん、エレン=ワークスのデータって引き出せますか?」
エレン=ワークス、チェスの世界大会で、六年連続、タイトルを守りぬいたプロプレイヤーだ。
「モチのロンよ、柄叉ちゃん、あと、俺のことは桐谷ってよんでちょ」
「ありがとうございます。日下部さん、いつもの所ですか?」
「うん、いやあ、エレンも悔しがってたよ? 次は勝つんだって。あと、俺のことは(以下略)」
そんなこんなで、柄叉と直刃、さやは、一室に通された。
何故か、日下部も中に入って、居座る気満々といった感じで、パイプ椅子を三つ用意した。
直刃とさやと自分の分である。柄叉の分は、テーブルに一つある。ここは、テーブルが真ん中に置かれ、黄色のライトが薄く室内を照らしている。床も、壁も全て黒塗りで、床には、一点だけ、3D投影機が設置されている。四十近い光源の、微妙な色の使い分けで、あたかも、そこに人が居るように、または、広告があるように見せる。
『やあ、久しぶりだね、柄叉くん』
よく通る、壮年の男性の声が聞こえた。
その瞬間、いつの間にかスーツを着た老紳士がそこに立っていた。
「どうも、エレンさん、一試合、お願いできますか?」
『願っても無いね、さあ、やろう』
コクリと頷いた老紳士は、不敵に笑う。
試合が始まる。
いつの間にか、テーブルの上に、3Dのチェス盤が現れていた。
柄叉が白、エレンが黒、二人はしばらく駒を動かしあった。
その間に、桐谷は、直刃とさやの隣に来る。
少し真面目な表情になった桐谷は、やぶからぼうに切り出した。
「柄叉ちゃん、相変わらずだねえ」
「どういうことですか?」
さやがおずおずと聞いてくる。
「色んな意味でさ。詳しく言うと、三つくらいだけど。まず一つ目の相変わらずが何かと言うと、第一次演算領域ってのを保有しているんだっけ? 詳しいことは俺には分からんけどもさ、完璧に、エレン=ワークスが次にどう出るかを読んでる。柄叉ちゃんは、ラプラスシステムを使わずに、未来予知が出来る希少な人間だってのは聞いてるけどさ、それは、エレンも同じで、どっちも予知能力者なんだよね。それなのに、まがりなりにも世界を取ったエレン=ワークスの手を全て読みきって、優位に立っちゃってる。すごいよねえ、本当にすごい、相変わらずだよ、柄叉ちゃんは」
そして、言葉を一旦切ると、「それに」と呟き、少し遠い目をした。
「ああしてる時が一番幸せそうだ。なのに、わざわざ才能を無駄にして、自分に合わない道を行こうとする……。相変わらずだ。全然変わってない。才能の無い俺からすると、本当に、妬ましいくらいだよ」
言葉の割には、桐谷は不思議と棘を感じさせない、憐憫と哀愁が混じった表情で、遠い昔を夢見、郷愁に浸る故人のように、柄叉を見ていた。
「それに・・・・、」
最後の「相変わらず」、それを食い入るように、直刃とさやは聞いていた。
話し終えた頃には、勝敗は決していた。
『また、私の負けか、本当に素晴らしいプレイヤーがいたものだ』
「大げさですよ、まぐれです」
『日本人の謙虚さは、外国人から見ると、嫌味にも映るものだ。堂々と誇るべきだよ、君の力をね』
エレンは、貫禄を感じさせる声で言った。
柄叉は軽く笑いながら、会釈をして、
「肝に銘じます」
対してエレンは満足そうに言う。
『よろしい、また来てくれたまえ』
エレンは手を振ると、突如として消えた。
「エレン=ワークス、七度目の敗退か・・・・。さすがだね、柄叉ちゃん」
「ありがとうございます。日下部さん、じゃあ、俺は帰ります」
「あり? もう帰っちゃうの?」
「ええ」と答える柄叉に、桐谷は本当に残念そうな顔を見せた。
だが、突然何かを思い出したように手をポンと打ち、
「朝霞が柄叉ちゃんに会いたいって言ってたんだけども、俺の家に寄ってかない?」
「すいません、今日は少し・・・・」
申し訳無さそうに言う柄叉、対する桐谷は、「そりゃ残念」などと言いながら、柄叉の肩に手を置いた。
「まあ、また来なよ」
そう言って、ひらひらと手を振り、ドアを開けると、三人に外に出るよう促した。
柄叉はすぐに外に出た。
「柄叉くん、もういいんですか?」
そんな背中を追いかけ、さやが聞く。
「ああ、ちょっと用事があってさ、二人とも悪いな。俺、直ぐ行かないと・・・・」
「柄叉くん……」
さやが、控えめな口調で、その名を呼ぶ。
「何?」と、柄叉は首を傾げた。
「何でもないです・・・・」
急に声をしぼませるさやに、柄叉は軽く笑って言う。
「おかしな奴だね、君も」
「柄叉程じゃないにせよ・・・・、ね?」
しかし、直刃にすぐさま切り返された。
「やられちゃったね、柄叉ちゃん」
笑いがその場を支配する。
しかし、一人を除いて、全員の胸中は穏やかではなかった。
誰の為に、とは言うべくもない。一人だけ、心の底から笑っている人物、誰にでも優しく、しかし、実は誰にでも冷たい、無機質な少年の為に……。
6
病院、灰色の病院、灰色の病室、灰色の花、灰色の患者。
柄叉は灰色の患者の手を取り、話していた。
「今日もさ、元世界チャンピオンに勝ったんだ。でも、チャンピオンも強くなってて、本当に苦戦したんだよ」
「……」
灰色の患者は応えない。
長い艶々とした髪、華奢な身体。と、いうより、痩せ細った身体。しかし、とても綺麗な少女だ。鼻筋は通り、肌は透き通っている。
純朴な美しさ・・・・。儚げな花、色を失った花の、それでも美しい様を思わせる。
きっと、色があった頃は、もっと綺麗だったのだろう。
その患者は、目を瞑り、横たわっている。
それは、どことなく、童話のお姫様が眠り続けているような光景を連想させる・・・・。
「……、そうだ、日下部さんは本当に相変わらずスーツが似合わなくてさ、ピアス、やめればいいのに」
「……」
灰色の患者は応えない。
作品名:ラプラスの瞳 序章ノ一 作家名:若槻 幸仁