ラプラスの瞳 序章ノ一
「今日もさ、おばあさんを助けたりして、そうしてる内に学校に遅れちゃってさ、葉桜先生に怒られた。でも、向こうも段々慣れてきたみたいで、前ほどうるさく言わなくなったよ」
灰色の患者は、あくまで沈黙を守っている。
「レーナも、いつか絶対俺が助けてあげるからさ、一杯楽しいことしよう。友達を作ったり、友達と遊んだり。絶対に、助けるから、絶対に……」
何度も、何度も言ってきたことだ。その度に、何も出来ず、ただ、ダラダラと日常を過ごしているに過ぎない自分を、恨めしく、また、忌々しく思う。
柄叉は、レーナの手をぎゅっと握った。
暖かく、温もりがあり、そして、落ち着く感触……。
こんなに近くにいるのに、こんなに遠い、その手を握るたび、柄叉はそう思う。温もりを感じることは出来ても、心を通わせることは出来ないのだから……。
それでも呼びかける。
それが、どんなに無意味だろうと……。
「・・・・じゃあ、帰るよ、またな」
「・・・・」
灰色の少女は応えなかった。
七年前、日本某所、
「ねえ、私たち、これからどうなるのかな?」
柄叉は、不安げな表情の、赤毛の少女に問いかけられた。
その、綺麗な光を湛えた目は涙を溜めながら、不安に、こちらに向けられ、華奢な身体は震えていた。
無理も無い、太陽の光も届かない、地下の牢獄、二人を照らすのは、薄い、蛍光の光だけ、それも、檻の先の通路の更に遠くから差し込む光のみ、
「大丈夫だよ、きっと、僕のお父さんたちが助けに来てくれる。せっかくの可愛い顔が台無しだよ、だから、泣かないで」
「でも、ここに居た子供、あの人たちに連れて行かれて、帰ってこない……。きっと、殺されてる」
二人は、ぼろぼろの服を着ていた。随分、長い間、ここに閉じ込められていたのが分かる。
「大丈夫、君を連れて、僕が逃げる。秘策があるんだ。だから、大丈夫、たとえ、お父さんが迎えに来なくても、きっと、君だけは守ってみせる」
そう言って、柄叉は笑って見せた。
すごく安心する笑顔。赤毛の少女、レーナは、泣くのを止め、「うん!」と頷いた。
その直後、足音が響く。再び、レーナが身を強張らせ、柄叉は緊張した面持ちになった。
やがて、ライトの光が二人を刺し、思わず彼らは目を伏せ、手で覆った。
「立て」
ライトを持った薄らでかい大人にそう言われた。
柄叉の目は、爛々と輝いていた。殺意と、そして、大切なものを守りたいという、決意によって……。
足枷と、手錠が掛けられ、自由に動けないのに……。
確かに柄叉には力があった。それでも、それはこの状況をひっくり返せるほどの力ではなかった。
それは、子供っぽい妄執。自分のちっぽけさに気付けない子供は、直後動き出した。
当然のことながら、大人を子供の力で倒すことは不可能、となれば、真っ向から挑むという下策は考えられない。柄叉はいつの間にか男の後ろに回りこんでいた。
足枷と言っても、普通に歩くことは出来る類のものだ。もちろん、完全に邪魔にならないかと言われれば、否定は出来ないだろうが、それでも、走ることくらいは出来る。
柄叉は、ネズミのような俊敏さで回り込み、男の膝の後ろに移動すると、回転し、手錠を叩き付けた。
男がバランスを崩し、昏倒する。
やっと、この時が来た、他の子供を檻から出すときには、柄叉が出口に行こうとすれば、警戒されただろう。柄叉はずっと、自分を呼ばれるのを待っていた。確実に逃げるために……。
だが、運が巡って来ず、柄叉は結局最後に回された……。
それでも、一番仲がよかったレーナと共に逃げることが出来るチャンスを掴んだのは、不幸中の幸いだった。
「レーナ! 逃げよう!」
柄叉が叫んだ。
レーナは、はっと眼が覚めたように頷くと、走り出した。
柄叉は走り続ける。
自由のために……。
生きるために……。
いや、生きるためにではない、生かすためにだ・・・・。
作品名:ラプラスの瞳 序章ノ一 作家名:若槻 幸仁