ラプラスの瞳 序章ノ一
まあ、それはさておきだ。
柄叉は兼光学園の制服を取り上げ、よれよれのTシャツとハーフパンツを脱ぎ、スプレーを取り出し、噴射すると、ベランダに干していた制服に着替え、ドアへと少し億劫そうに向かった。
2
部屋の外へと出ると、案の定、クラスメイトの雨切直刃と十束さやが待っているわけで、直刃が「やあ」とこちらに声を掛けてくる。
「よう、おはよう、さや、直刃」
簡単なあいさつを終え、柄叉は二人の下へと小走りで駆けた。
そんな中、少女の方が釘をさすように、しかし、表情は柔らかく温和に言う。
「柄叉くん、今日は間に合うようにしてくださいね?」
少女は、首を僅かに傾げ、口元を緩めていた。
「それは、さっき直刃に言われたよ」
柄叉は、辟易したようにそれに反応すると、「はあ」とため息を付く。
少女は、それを見てクスクスと笑った。
十束さや、現代では珍しく、眼鏡を掛けた少女で、真面目そうな顔、しゃんと伸びた背筋が特徴的だ。
他人行儀に敬語を使う少女なのだが、不思議と親しみの持てる、心にすっと入ってくる口調で喋る。
二人とも制服を着ており、更に、腕にAECを装着している。そこから、3Dディスプレイが伸びて、顔の側面に表示されていた。二人とも、そのディスプレイに触れて、何か操作をしている。どうやら、画面を閉じようとしているらしい。案の定、画面がオフになり、3D画面が消失した。
そして、二人は柄叉にまくし立てるように言うのだ。
「とにかく、早めに行きましょう! どうせ時間が足りなくなるに決まってますから!」
「そうだね、行こう行こう。柄叉、早く行こう!」
いつものパターンである。
時刻は七時五分、電車通学とはいえ、時間は十分にある。だが、三人には、というか柄叉には、毎回遅れる理由がある。
以下がこれである。
「大丈夫ですか? おばあさん」
柄叉は、白髪の老人に声を掛けていた。老人は、どうやら足を挫いたらしい。
柄叉がいるのは、普通の道路である。
そこら中に樹木が植えられ、その傍らで、高層ビルが軒を連ねている。
こんな光景が見られるようになったのは、五十年も前らしい。
この樹木は、ものすごいスピードで光合成を行う遺伝子操作された樹木であり、地球温暖化が落ち着いた昨今では、縮小されつつあるが、こういった樹が植えられた植物園はそこら中にある。
人工物とは言え、自然を感じたいと言う人間の欲求がそんな縮図を生み出しているのだろう。
それはさておきだ。
柄叉は、辺りを見渡したあと、老人のほうに向き直った。
放置するなど言語道断だ。
「よし、じゃあ、病院まで送ってくるから、二人とも先に行っててよ」
「駄目だよ、柄叉、また遅刻しちゃうじゃないか」
「そうですよ、柄叉くん、駄目です」
二人は、首を振り、柄叉を諌めたが、
「じゃあ、おばあさんをこのままにしておけっていうのかよ?」
「それは、そうだけど(ですけど)・・・・」
二人は、口ごもる。
「とにかく、二人が遅刻してしまうのは忍びない。俺が行くよ」
対して柄叉は有無を言わさない。
そんな訳で、救急車を呼ぶのも少し大げさだろうと思ったので、老人をおぶると、、柄叉は歩き出す。
「葉桜先生には、遅れるって言っといてくれ」
「……、病院は近いし、付いていくよ」
直刃は、しばし沈黙し、ため息をついた後、やれやれといった調子で、嘆息した。
さやも、仕方が無い、というようにため息をついた。
そんな訳で、老人を病院に送ると、柄叉と二人は、再び学校への道を行く。
だが、
「大丈夫ですか? その自転車のチェーン、外れてるの、直しましょうか?」
「ありがとうございます。困ってたんですよ」
他所の学校の生徒と思われる少女の自転車を直し・・・・。
「あ、その自動車のAI、ウィルスに感染してるみたいですよ? 動きが重いのはそのせいです。ちょっと、見せてください」
「ありがとうな、お兄ちゃん、困ってたんだよ」
配送業の、暑苦しいおじさんの自動車を直し。
「飼い犬逃げちゃったんですか? 一緒に捜しますよ」
「ありがとう、助かります」
主婦の連れていた犬を捕まえるため駆けずり回り、三人は結局、電車に乗り遅れた。
そういうわけで全力疾走である。
「柄叉くんは非常識です! 意味不明です! お人好し過ぎます! 自分のこともちゃんと出来てないのに他人のことを気にして! ちょっとは自分の身を省みてください!」
「そうだよ! いっつも、いっつも! また葉桜先生に怒られるよ!」
「いや、だから先に行っていいって言っただろ」
二人が文句を言うが、柄叉は悪びれない。
というか、なんだかんだで柄叉を待つ彼らも十分お人好しなのには、二人とも気付かない。
「それにさ・・・・、ほっとけないんだよね。あのおばあさんは、もしかしたら、誰にも助けてもらえなくて、本当に困って困って、でも、何も出来なくて、悔しくて、悲しかったかもしれないし。あの女の子は、もしかしたら、今日遅刻したら、単位を落として、留年してたかもしれない。あのおじさんも今日の仕事が出来なかったら、家族を養えなかったか,も。あの女の人も、あの犬が交通事故に遭いでもしたらさ、きっとすごく悲しかったと思うんだよね・・・・」
そこで、言葉を切り、柄叉は走りながら、宙を見上げ、更に続ける。
「本当に助けて欲しいときに誰も助けてくれないのって、本当に辛いんだ。だから、俺は、目に見える範囲くらいは、そういう人を助けたい」
「「……、」」
二人は、押し黙った。
押し黙ったまま、走り続けた。
そうだ、柄叉はそういう人間なのだ。
二人とも、そんな柄叉に助けられたのだから。
三人は、ただ走った。
二人は、少し後悔した。
二人に柄叉に文句を言えるような資格など無いのだから・・・・。
三人は、ただ走った。
一人は、何かを忘れようとしながら、二人は、何かを思い出しながら。
三人は、ただ走った……。
3
葉桜小船は教師だ。だが、教官、と言われたほうがしっくり来る。かなり目つきが鋭い女性で、背が高く、どこと無く威圧的である。顔貌は整っており、その眼光によって、無機質な美しさを演出している。別に本人が意図してのことではないが、美人鬼教官葉桜小船といえば、この学校で知らない生徒は居ない。
兼光大学付属、兼光高校……。この学校では、ある特殊な技能を持った生徒を育てている。
未来予知、過去透視、
日本が某国の暴走を三日で押さえつけたのは、その力あってのこと。
ラプラスという物理学者は言った。
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。
この圧倒的な知力を持った知性を、後の人々はラプラスの悪魔と呼んだ。
結論から言ってしまえば、このトンデモ理論は、実現不可能だった。量子力学、情報科学の観点からラプラスの悪魔は葬られたのである。
作品名:ラプラスの瞳 序章ノ一 作家名:若槻 幸仁