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和尚さんの法話 「小悪を軽んじて罪無しとすること勿れ」

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もう明日死ぬ、今晩死ぬんだということが分かってたら、お金のためにというようなことも出来ますまいが、まだ命があると思うてるから。

今日のためにと思うて苦労をしてるのと違いますから、この世の将来のために毎日働いてるんですから、ですからそれをもう少し先へ延ばして、あの世の用意もしないといけないんじゃないですか。

未来も命があるんだから、死んだらそれっきりと違うんだから。と、いうことです。

普通我々があの世へ行ったら同じような状態のところへ行くそうです。落ちなければね。

この世よりも、あの世のほうがいいそうですよ。

たとえ極楽や天上界へ行けなくても、あの世のほうがいいそうです。

況や、極楽とか天上界へ行ったら結構ですよね。


あの世からこの世へ生まれてくるときは、あの世から死んでこの世へ生まれてくるんですからね。

だからこの世へ出たくない、出たくないと。

この世に生まれたらおめでとうというけど、あの世から見たら、この人はもうすぐこの世へ死んでいくなあと、いうようになってるんですね。

こっちで死んだら、あの世で生まれてるし、こっちで生まれたらあの世で死んでるんですよ。それだけのことですよ、行ったり来たりしてるんです。

それじゃそれでいいじゃないかと、いうんじゃいかんので、どんどん上の幸せの世界へ行くほうがいいわけですから。

いくら宗教だというても不幸になる必要はないわけですよ、幸せになったらいいんです。

ただ世間一般の幸せと宗教のいう幸せとは次元が違うんですね。

それは、お釈迦様がこういうことをおっしゃってるんですが、娑婆の衆生が、この娑婆がいい、娑婆がいいと思うてるのは、我々仏の目から見たら、今はもうなくなりましたけど便所の中の虫がありますね、私が子供の頃に中を覗いてたら虫が動いてるのが見えましたが、あの虫は外へ出したら死んでしまうんですよね。

虫にとって、あのうんこの中が極楽なんですから。

我々衆生を仏様から見たら便所の中の虫と同じだというんです。

我々がこの世がいいと思うのと同じで、そりゃ虫にとったらうんこの中が極楽だと思うのと同じなんですね。そういうお経があるそうです。

それから、同じ水でもね、迷うてる人が飲む水と、仏様のような悟った人が飲む水で
は、同じ水でも違うというのですね、そういうこともあるわけです。

幸福か不幸かということですが、仏教からいうと不幸ですが、それは煩悩から来るというのですよ。

怒りとか愚癡とか貪欲とか、それに従って行動してるわけです。

その煩悩が無くなったら、もう苦しみは無くなるということです。

だからその煩悩は断ち切りなさいというんですね。

ところが我々は、その煩悩は自力では断ち切れないのですよね。

難しいので、そこで浄土門というのがあって、いつまで修行をしたって、うだつが上がらないというので、それなら私が救ってあげようと。

私の名を称えて、私を慕って私の国へ来たいと、そう願いなさい。

それが私の心に叶ったら必ず私の浄土に生まれさせてやろうと、いうのが他力ですね。

阿弥陀様を信じ、慕ってお念仏を称えたらいいのだから難しいことはないわけです。

難行苦行をすることは要らないのです。

そして極楽へ行って、その修行をさせてくれるわけです。

観音様や勢至菩薩様や大勢の菩薩様方がいらっしゃいますよね。

そういう世界が、我々人間の世界以外にあるということです。それを心の底から信ることですね。



お釈迦様がインドのあっちへ行き、こっちへ行きして説いて回った。

そのインドという国の中に舎衛国という国があるんですね。

その舎衛国に25年間居ったわけです。

祇園精舎のあるところで、一番長く居たんですね。

お釈迦様の本拠ですね。そこで25年居たけれども、その舎衛国の三分の一の人が、お釈迦様の説法を目の当たりに聞いたんです。

次ぎの三分の一は、噂は聞いたけれども、説法は聞けなかったんです。

次に最後の三分の一の人は、聞かず知らねど闇にけり、と。

お釈迦様と言う人が舎衛国に住んでいて、結構なという法を説いていらっしゃるという噂すら聞かなかったというのですよ。

それを法然上人が嘆いてるんですよ、自分がそういう所に居ったんじゃないだろうかと。

その最後の三分の一の中に生まれていたのではないだろうかと。

だから仏縁がないのと違うだろうかと嘆いたんですよね。



忉利天という天上界があるんですが、そこにお釈迦様のお母様が生まれてるんですね。

お釈迦様が神通力で、神通力は霊魂が肉体から抜けて飛んで行くんですよ。

肉体が飛ぶわけじゃないんです。肉体がそんなところへ飛びません。

霊魂が空を飛ぶんですよ、舎利弗でも目連でも。

そして忉利天という天上界へ行って、お母さんのためにお説教をするわけです。

その忉利天に90日いらっしゃったというので。

肉体はこの世へ置いて、霊魂が天上へ上がってね。


地蔵経はそこで説かれたんですよ。

忉利天という天上で大勢集まって法を説かれたんですが、それにも自分は会わなかった
んだと。

或はお釈迦様と一緒に生まれ合わせておってもその三分の一のなかに居なかったのか、と嘆いて今ここで、お釈迦様が亡くなってから後に生まれたけれども、ありがたいことに法が残ってる。

この法を頼りにして浄土へ生まれましょうということですね。

昔の坊さんはどうでしょうか、明治までの坊さんはそういうことを信じてきたと思うんですよ。

明治以後に科学という思想が入ってきて、科学で物を証明しますよね。

ところが霊魂はまだ証明が出来ないですね。

いつか出来るのかもしれないけれども今のところはまだ証明できない。

そういう科学で証明できないものは霊魂はないという考えになってきたんですね。

ですが、本当に偉大な科学者はあの世はありませんというようなことは言わないと思うのです。

ありませんと言わないかもしれませんけど、分かりませんという言い方をすると思いますね。

本当の科学者だったらそう言うと思うのですよ。

分かりませんというのは、将来証明が出来るのかもしれないですよね。

我々にも、弘法大師のような非常な瞑想な知識を持った方がいらっしゃったら、なんとかなるんじゃないかと思うのですが、今はちょっと難しいですよね。

科学、それから心理学、医学、つまり霊魂が、或は神仏があるということになってきたら、そういう分野も随分開拓ができると思うのですがね。


例えば、我々が神仏にご祈祷をしますよね、そしたら少しでもよいほうへ変わってくると。

それは神仏の力が加わってくると、そう解釈するけれども、お医者さんとか科学者は、それは気休めで、してもらったからなんとなくそんな気になってくるんだというふうな想像するんじゃないですかね。


然し、業決定というように、その人はそこで死ぬというようになってる場合には、それは業決定は転じ難し、でこれはもうどうしようもないですね。

そうでなかったら、大難は小難、小難は無難になるのです。