和尚さんの法話 「小悪を軽んじて罪無しとすること勿れ」
それで、生まれても死んでも、生まれても死んでも、今日までずーっと、500回この世へ生まれ変わってきてるんだけれども、何遍生まれても狐にしか生まれてこないんです。
人間に戻ることが出来ないんです。
なんとかして、もとの人間に戻りたいと思うて、それにはいいお説法を聞かないといけないと思うて、近頃あなた様がお山にお住みになって、毎日毎日お説法をなさってる
と、それを拝聴してました。と、こういうことなんです。
それで、お聞きしたいのですが、と。百丈禅師という僧に聞くわけです。
百条様、いったん悟りを開いたら、大丈夫でしょうか、どうでしょうか。
因果の道理に落ちるのでしょうか、落ちないのでしょうか、と。
自分がかつて弟子たちに受けた質問をそのまま百条禅師に訴えたんです。
そしたら百丈禅師は、それは違うよと。
いくら悟ろうが、迷うておろうが、悪いことをしたら悪い報いを受けるです、善いことをしたら善い報いを受けるんであって、それは悟りや迷いと関係ない。
たとえ悟っていても、悪いことをすれば悪い報いを受けるんです。
と、こう答えたんです。まるで逆ですね。それは凡夫も聖も関係無いのです。
誠に結構でございました。それでございました、私は間違ってございましたと。
私はこれで人間に生まれ変わることが出来ますと。
どうか私の葬式をしてください。
実は私は今はこういう姿をしていますけど狐なんです。
この裏山に大きな狐が一匹死んでます。
それは私の死骸でございますから、どうぞひとつ葬式をしてほしいのですと。
こういう話があるんですよ。
これは百丈禅師の伝記の中に出てくる話なんですよ。作り話と違うんです。
禅宗では、ひとつの悟りへの問題になってるんですね。
それは、非法を正法と説いたんですね、非法を正法と説いたから。
だから間違った法を説いて、地獄へ落ちるんですか、餓鬼へ落ちるんですかというけど、落ちてるんですよね。
僧侶というのは、皆さんを善いほうへ善いほうへ導いていただいて、そしてなんとか本当の仏道へ乗っていただいて、そして未来は仏に成って頂いて、という意味でお話申すのです。
だから正法を正法として説かないと、例えば僧侶が大丈夫ですよ、悪いことをしても仏様に成れますよ、よこういうことを言うたとしたら、あの世へ行ったら三悪道へ落ちるということです。
百丈野狐ですよね。禅宗では、自分では悟ってると思うが、お師匠さんから印可も出たと、だから自分は悟ってるんだと。
お師匠さんから許しを得たんだからと。
ところが悟って無いんですよね。それは仏様の目から見たらそれは歴然としてますよね。
我々は自分の判断ですからね。合ってることもあるし、間違ってることもある。
然し、如来様がご覧になって、ああだこうだとお指図があれば、それはもう間違いがない。
禅宗では、「野狐の公安」といって、ひとつの公安になてるわけです。
悟りを開いたらもう何をしてもいいのか悪いのか、とこういう問題が出てくるわけですね。
こういうこともあるにも関わらず、後の禅宗の坊さんも、あ、こういう言葉があります。「不落不昧」(ふらくふまい)と、こういう言葉があります。
その伝記に書いてあるとうりの文句を言いますと、狐の生まれ変わりの坊さんが、前世で或るときに、
善いことはいいですが、悪いことをしたら因果の道理に落ちますか、と聞いたんですよ。
弟子が、お悟りを開いたら悪いことをしても、もう大丈夫ですか、と聞いたんですよ。
そしたらお師匠さんは、「不落」というたんですよ、落ちずと。
「不落因果」ですね。悪いことをしても因果の道理にもう落ちない。
と、こう答えたんですけれども、それが間違ってた。
そして百丈禅師に聞いたら、「不昧因果」と、こう答えたんですね。
昧は、目が眩むと読みます。
ですから、因果を昧まさずということです。
つまり、悟りを開いておっても、因果の道理は差別が無いということです。
凡夫であっても悟りを開いてあっても、善いことをすれば善い報いがあるし、悪いことしたら悪い報いがあると、こう伝記の中には出てくるんです。
それは今言う、非法を法と説き、法を非法と説いてるから。
例えば、お釈迦様が極楽を説いてるのに、極楽は無いんだ、と説いたら、これは法を非法として説いてるんですね。
それはそういうことを言うと、それだけの報いを受けると、悪道に落ちるという嗜(たしなみ)みの言葉ですね。
五には、「法の過を求めんが為に聽受するが故に」(ほうのかをもとめんがためにちょうじゅするがゆえに)
例えば、法話を聞きに集まったとして、きっと間違ったことを言うにちがいない。
あの世なんかあるものかと、あんなことを言う坊さんを今日はやっつけてやろうというて、坊さんのあら捜しをするんですね。
ところが、その坊さんが正しいことを言うてたらいっそう罪が深くなる。
正しくなくても、本当は自分では正しいと思って説いてる、と。
さっきの野狐のようにね。
そんな坊さんでも、あら捜しをしてやっつけてやろうと思ってたら、それはそれで罪になる。まして相手が正しかったらよけいに罪は深くなる。
和尚さんのところにも、たまにそういう人が来るそうです。
わざわざ討論をかけにくるんだそうですが、そういう人は仏教を信じない人ですね。
和尚さんが戦争から帰ってきまして、寺で人を集めて仏教教義をやってたんですが、するとそういう唯物論者が来てさかんにあら捜しをするんですね。
それは自分が分からんから訊ねるというのと違って、初めから認めて無い。
認めて無いんだけれども、初めから討論会のようなつもりでやっつけてやろうというので来たんですね。そういうことは、今のお話では悪道へ落ちる原因になるというふうに説かれているわけですね。
だからこんなことを聞いてたら、こんなことが罪になるのか、というようなのが出てくるんですよね。これはまだ一般の人に説いたお経ですから、それでもこれですからね。
ですからお釈迦様が直接自分の教団の弟子たちに説いたことはもっと厳しいですよ。
兎に角、仏教はあの世があるということが大前提ですから。
謹んでご冥福をお祈り致しますと、あの世の幸せをお祈り致しますというその言葉からして、あの世というのが存在するからそういう言葉があるんですからね。
冥福は冥途の幸福ですね、いい所へ行っていただきたい、とそういう気持ちを込めて拝むわけです。
だから仏教というものは、あの世というのがあっての話です。あの世がなかったら、こんな話は暇つぶしということになるから時間がもったいないですよね。
我々が毎日あくせくと働くのは、まだ死なないと思うてるし、死なないためには食べないといけませんし、ちょっとでも幸せになりたいと思いますし、働いてお金を儲けようと思いますし、やっぱりこの世はお金ですよね。
そのお金のために、あくせくと働くわけですけれども、1年後、10年後と、その計算で毎日毎日働いてるんですよね。
作品名:和尚さんの法話 「小悪を軽んじて罪無しとすること勿れ」 作家名:みわ