和尚さんの法話 「小悪を軽んじて罪無しとすること勿れ」
それは何処から決まってきたかというと、それは前世から決まってきたということです。
前世での行いによって、善の道へいったり悪の道へいったり、幸福な過程を辿っていったり不幸な過程を辿ったりしてながら一生を辿っていくわけです。
話は反れましたけど、因果の道理を認めないということ、これは仏教では大変な、大きな不徳になってるんです。
善悪の報いなんか無いと、つまり偶然というのか、努力さえすれば成るとか、そういうふうな考えと違うんですね。
努力はもちろんしなならんけれども、善は善の報いが来るし、悪には悪の報いが来るということはお釈迦様がおっしゃってるから認めないといけないわけです。
それを否定すると、地獄へ落ちなければならないということにも成りかねない。
それは一つの原因になるということです。
二には、「菩提心を発せる衆生を殺すが故に」(ぼだいしんをおこせるしゅじょうをころすがゆえに)
仏道を求めていこうという気持ちのある人。
特に、未来に私は仏に成りましょうと、お釈迦様も元は凡夫であったと、阿弥陀様も元は凡夫であった。
皆修行をして如来様に成ったんだから私も如来に成りましょうと。
坊さんは皆そういう気持ちにならないけませんのですけど、ところが一般の在家の人でもそういう人があるはずなんですよね。
本当に仏道の道を求めるという人がね。
仏教というのが本当に分かったら、そういう気持ちになるはずなんですよね。
そういう人を殺すと。
法律ではともかく、仏教は仏教の法則があるんですよ、例えば焔魔の庁というのがあるんですから。
どうですかね、皆さんは信じますかね?閻魔さんというのを。
あるんですよ。必ず向こうで裁かれるんです。
裁かれないといかん人はね。仏教の裁判といいますかね。
法律でいうならば、Aを殺した、Bを殺した、Cを殺した、同じように殺したら同じような罪になるんじゃないですか。
ところが仏教からいうと、今言う菩提心があるか、ないかと、同じ殺し方をしても、例えばAという仏の道を志していこうという人を殺したと、Bは悪人を殺した、あのあさはらは、教団に背くことを言う人を殺したら功徳になると、あんなこといいますが、あれは自分を中心に考えてると思うのですが、宗教家であって不思議な考え方をするものだと思いますね。
ところが、菩提心のあるものを殺したのと、菩提心のないものを殺したのとでは罪が違うんです。と、お釈迦様がおっしゃるんですよ。
だから、菩提心が仮にあっても、阿羅漢を殺すのと、我々の凡夫を殺すのとでは、これはまた違うのです。
私も未来は仏に成りましょうと、いう気持ちを持っていますので菩提心があると思うのです。
その私を殺すのと、舎利弗とか目連のような阿羅漢様は今はいらっしゃらないけど、私を殺すのと阿羅漢様を殺すのとでは罪が違うんです。
阿羅漢を殺すと無間地獄へ落ちるんです。五逆罪の一つですね。
五逆罪は、永久に救われないという罪です。
父を殺す。母を殺す。阿羅漢を殺す。仏様に傷をつける。仏教教団の破壊。
この五つの罪を五逆罪といいます。
殺す対象によって罪が違うんです。それはこの世の法律と違うわけです、仏教の法律というのでしょうかね。
仏様がお決めになってるひとつの規則ですね。
そういうことで、あの世とことの罪を知らないで罪を犯してるということですね。
三には、「好んで法師の過を説くが故に」(このんでほっしのとがをとくがゆえに)
法師とは坊さんのことですね。
好んでというんだから、坊さんがあそこにあるが坊主はなってないじゃないかと、
絶えず坊さんの悪いことばっかり言う。
とか、あの坊主はあんなこと言う、こんなことをするといって、影で悪いことを言って暴露する。
例え坊さんだけじゃありませんよ、お互いにそうですよね、暴露するということはいい
ことじゃありませんね。
こういうことをしてはいかんということです。
一般の人の過をいうよりも、坊さんの過を言うほうが罪がきついですよね。
だから一般の人の物をとるよりも、お寺の物をとるほうが罪がきついんです。
それは仏様のお弟子になって一所懸命に仏様の手足となって働いてる者だと、こういうことになってるんですね。
だからお寺というものは如来様が必ずいらっしゃいますから、その如来様の館ですから、そこの所有物ですから。
だから仏道のことに功徳を積めば、善いことをすれば在家のことより功徳は大きくなるし、罪を積めば在家にした罪よりも寺へした罪のほうが大きいのです。お経にはそういうようになってますね。
四には、「正法を非法と説き非法を正法と説くが故に」(しょうほうをひほうとときひほうをしょうほうととくがゆえに)
つまり間違って説くということですね。
そういうことをすると、三悪道に落ちる原因になると。
このお話は新しい人もいますのでお話しますけど、昔、中国に偉い坊さんがありまし
て、毎日弟子たちにお説教をしてたんです。
或る日、何処からか見慣れない一人の老人が現れてきて、お堂の片隅で毎日、毎日来て、じっと説法を聞いてるわけです。
あの老人は誰だろうと、思いながら毎日毎日過ごしていくんですね。
そしてその説法が終わって、皆が道場を去っていくときに、その老人だけが残ったので、禅師は廉がねあの老人は誰だろうと思ってたので、お前はいったい誰だ、何処に住んでるんだと聞いたところが、
実は私は、かつてこの山で住んでいた禅宗の僧でございます。
それで毎日、弟子たちに説法をしてたわけです。
で、或るときに弟子が、禅の修業をして悟ったと、そうなったらどんなことをしてもかまいませんか、と。
つまり、悪いことをしてもかまいませんか、罪にはなりませんかと。
こういう質問をしたんですね。
迷うている間は、凡夫の間は悪いことをしたら悪い報いがあるかもしれませんが、いったん悟りを開いてしまったら、もう何をしてもいいのかと。
それで私は、そりゃあ悟ったしまったら何をしてもかまわんぞと、そう応えてしまったんですと。
毎日そういう修行をしてたわけですね。
悟ったら何をしてもいいけど、迷うてる間は気をつけないといかんぞと。
いったん悟ってしまったら、人を殺そうが物をとろうが、それによって因果の道理を受けるということはない。
ところが、それは自分が生きてるときはそれが正しいと思うてたわけです。
大勢の弟子たちにそれを聞かせてたんです。
ところが、それが間違ってたんです。
間違ってたということが、死んで初めて分かりましたと。
私は多くの弟子たちをたぶらかしたんですと。
結果的には、自分は嘘を言うつもりではなかったんだけどれども、自分は信じてたんです。だからその心念の基に毎日説いてたんです。
ところが、それは自分の心念であって、仏様の目から見たらそれが正しいかということは、また別なんですよね。ところは間違ってた。
だから私は、多くの弟子をたぶらかしたために、私はその報いで狐になったんです。
つまり、畜生になったということですね。地獄、餓鬼、畜生の狐に生まれたんですね。
作品名:和尚さんの法話 「小悪を軽んじて罪無しとすること勿れ」 作家名:みわ