小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

和尚さんの法話 「小悪を軽んじて罪無しとすること勿れ」

INDEX|2ページ/6ページ|

次のページ前のページ
 

人を殺したというのならどうかわかりませんけどれも、食べたい物を食べる、見たいのを見る、欲しい物を得る、そういう欲望のままに動いてなんで地獄へ落ちるんですかと
言うんじゃないかと思いますけどね。
ところが初めはその欲望もだんだんと膨らんで派生していきますよね。
「四には、善根を遠離(おんり)するが故に」

功徳を積む。善い行いをするということです。

遠離というのは、遠く離れる、そういうことをしないという意味です。


例えば、お寺を修理するとしますね、そして寄付をお願いしますというと、そんなことはお断りということです。赤い羽根募金もお断り。

兎に角そういうことは、仏教では、ありがたいことに犠牲を払えば必ず功徳というのがあるんです。

犠牲を払うというのは、自分以外のことに有形無形の、お金でもいいし、身体で尽くすと、そういうことでもいいんです。

そういう犠牲を払って人のためになってると、大なり小なりの功徳というのが必ずあるのです。

お釈迦様だったら、お前のあのときの功徳だと、教えて頂けるけれども、我々はそれは分からないですから、お経に説いてあることを信じるしかないですよね。

お釈迦様が説いてあるんだから嘘をおっしゃるはっずがないから。

そこは我々は信じるほかしょうがないですよね。
そういうことで、それをしないということですね。

功徳を積まないということは既に不徳なんですよね。
そういうチャンスを少しも実行しないで不徳を積むわけです。

悪ではないけれども、不徳になるのです。不善という言葉もあるのです。
善に非ずと。
仏教は自業自得ですから、善悪共に報いを受ける。これが仏教の原則なんです。

親がしたから子が受けるとか、子の罪を親が受けるとか、そういうことは絶対にないわけです。した人が報いを受けるんです。
ただ、その報いがこの世ばっかりで受けるというわけじゃないというところに問題があるんです。
問題があるというのは、目の前へ出てきたら、あの人はこうしたから、こうなったと、この世で全部答が出るんなら誰も疑わずに信じてくれるんですけれども。
そういうのもあるんですよ、この世でやったことがこの世で出ると。
この世でやった結果が死後に報いてくるというのもあるし、またこの世へ生まれ変わってきて報いるというのもあるんです。

然し、この世へ生まれ変わってきたときは前世の記憶がないから本人は分かりませんね。
然しながらお経にはそう説いてあるんですよ。
あの世の報いにした、こういうお経がありますね、
「小悪と軽んじて以って罪無しとすること勿れ死後に必ず報い有り」と。

これくらいのことなら罪にならんだろうと、然し後世にその報いを受けるんだということですね。
これは皆あの世のことを言ってるんですよね。
あの世のことを中心に説いてるお経ですから。
「五には、悪業障を隔つるが故に」(あくごっしょうをへだつるがゆえに)
これはちょっと分かり難いのですけれども、四は良いことをしないということですが、これは悪いことをどんどんしていくという意味だと思うのですね、
隔てるという意味はね。悪いことをするということですね。
「六には、悪知識に親近するが故に」(あくちしきにしんごんするがゆえに)
悪知識は、間違った法を説くこと。その反対が善知識ですね。
仏様も認めるような法を説く人を善知識といいますね。
悪知識というのは、その逆ですね。
親近とは親しみ近づく。
こういってはなんですが、オウムのあさはらに皆が集まっていく、あれは悪知識ですね、殺すことを教えてるんですから、これはとんでもない。
そういう人に近づいていく。近づいていくから、その人に教えを受けるわけですから。
それも因縁といえば因縁なんですけれどもね、そういう悪知識に近づいていくと間違ったことを教えられる。
五事有りて三悪道に没す。

「一には、常に善悪の果無と説くが故に」(つねにぜんあくのかなしととくがゆえに)

これは、善因善果、悪因悪果というのが仏教の原則ですよね、自業自得ですから。

ところが、そんなものは無いんだと。善には善の結果、悪には悪の結果、善悪ともに報いがあるということです。

善因楽果、悪因苦果。楽というのは、幸福という意味ですね。

苦果というのは不幸なということです。ですから、この楽果の中には、健康というようなこともあるし、家族円満というようなこともあるし、苦果の中には、死ぬというようなこともあるし、家族がいつも背中合わせというようなこともあるし、病弱というようなこともあるし、兎に角何等かの苦しみ、不幸ですね。


善因楽果、悪因苦果。こんなものは無い。

因果の道理なんか無いんだ、世の中は全て偶然だ。

或は、努力なんだとよく言いますよね、運命なんか努力さえすれば良くなるんだと。

孔子が、初めはそのつもりだったんですよね、自分の努力や才覚によって何でもうまい事いけるはずだと思ってた。

自分は立派な論語という思想を皆に説いてもなかなか受け付けない。

そして苦労をして、食べるにも困ったというようなこともあるんですね。

自分は何も悪いことをしてないということですわね。

人の為に尽くしてるのに、なんで私だけが苦労をするのだと。

人を見ると、気楽になんであんなにすいすいとうまいこといくのだろうと思うのです
ね。
結局あの人は、「50にして天命を知る」といってるんですね。

どうも、知性とか、努力とかそういうものとは別に、「天命」。運命ですね。
これを仏教的にいうならば因縁です。

運命というのは、因縁なんです。

因縁というのは決まってる。だから運命も決まってるんです。

ところが、占い者といいますか、そういう人は宗教家じゃないんだから、これはこうなります、こんなことだかららこうなりますと、いうことだけでいいんですよね。

ところが宗教は、そういうわけにいかないんです。

こうなります、こうなりますというのは、決まってるんですね。

決まってるから予言できるんです。決まってないものだったら予知することは出来ないんですよ。
以前にお話しましたけど、占いと仏教というのがありましたね。
仏教は占いを認めてる。否定してないです。

古いというと、迷信的な考えをもってると思うのですが、そうじゃない。

オカルトという本当の語源は、普通では考えられないことが起こる。

それを認めるのがオカルトなんですよ。

ところがそれは科学では解明できない。

なんであろうと。八卦もそうやし、手相や人相もそうなんですよ。

それは何故やろうという、その解明が科学でまだ出来て無い。

兎に角結論が分かってるんですね。例えば、生命線が短い、この線が短かったら何で早死にするんやろうと、それは科学では分からないんですね。

占い者もなんでこういうことになるのか知らないけれども、統計学でしょうね、おそらくは。

この線の人は皆こうなるというように、だからこの人もこうなってるからこうなると。

いうことなんでしょうね。
兎に角、運命というものはあるんですよ。

運命があるということは、自分の先が決まってるということですよ。