小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

和尚さんの法話 「小悪を軽んじて罪無しとすること勿れ」

INDEX|1ページ/6ページ|

次のページ
 
「善男子、誓えば良医の病を知りて薬を説くに病者の服せざるは医の咎(とが)に非ず。」
この一番最初の文句は仏遺教経(ぶつゆいぎょうきょう)というお釈迦様のご遺言の中に出てくるんですね。
文句は多少違いますが、意味は同じです。
このお経は遺言経にもあれな涅槃経にもあるし阿含経にもあるしあちらこちらにありますね。
それはこの仏教は、お医者さんとか、薬というのを非常に尊重するわけですね。
現在の宗教の中に、お医者さんとか薬を遠ざける宗教がありますが、仏教はそうじゃないですね。
病気になればお医者さんに診ていただくし、薬も飲まないといかんと説いています。その例えですね。
立派なお医者さんとは、昔はお医者さんが薬を製造したんですから。
この病気にはこれだな、この病気にはこの薬だなと思って、薬を調合して病人に飲ます。
ところが、相手の病人さんがお医者さんの言うことを聞かずに、こんなものを飲んでも効かへんわということで薬を飲まない、ということもありますけれども、それはもうお医者さんの責任じゃないですね。
本人が悪いというお経ですね。「服すと服さざるは医の咎に非ず」と。
私は法を説くけれども、受け入れないのは、それはもう如来の責任ではないと。
説いてもああだぞ、こうだぞと言うていくら説いても聞かない。
と、いうような場合ですね。
善男子よ、と。善男善女とありますね、その男子をいうわけです。

「善男子、誓えば良医の病を知りて薬を説くに病者の服せざるは医の咎(とが)に非ず。
善男子、若し施主有りて其の所有(お金とか財産ですね)を以って一切の人に施さんに受けざるは施主の咎に非ず。
(供養のために布施をしたいんですと、いう人があっても、それは受けないのは、それは施主の責任ではないということですね)
善男子、 えば幽冥の日出づれば明かなるに盲いたる者の道を見ざるは日の咎に非ず。
(真っ暗なところでですね、いよいよ夜が明けて日が出てくる。すると普通なら誰でも見えるんですが、ところが目の悪い人には見えない。それはその人が悪いのであってお日さんが悪いんじゃない。と、それと同じなんだというのですね。)
善男子、恒河の水の能く渇を除くも渇者の飲まざるは水の咎に非ず。
(恒河のいうのはガンジス河のことですね。河は水ですから渇きを潤しますが、その水を飲まない。飲まないのは恒河が悪いんじゃなくて、飲まないのが悪いということですね)
善男子、 譬ば大地の普(あまね)く果実を生ずるも農夫の種えざるは大地の咎に非ず。
(地面というのは種を蒔けば生えてくる。ところが、その農夫は種を蒔かない。種を蒔かないから収穫が無い。それは大地の責任じゃない、農夫の責任だということです。)
如来は衆生の為に普く法を説くもこれを受けざるは、如来の咎に非ず。
(お釈迦様は、人々の為に、分け隔て無く法を説いているんだけれども、それを聞く人もあるが、聞かない人もある。聞かないのはお釈迦様の責任ではないということです。)」
ですから法を求める者の求め方に責任があるんだということですね。
お釈迦様の法は完璧でしょ、それを聞かないというのはお釈迦様の責任ではないですね。
これは私が言うてるんじゃなくて、お釈迦様がおっしゃってるんですから、私は受け売りをしてるだけですが、法は聞く人に責任があるということですね。
仏様とか、阿羅漢様とかのお説教は完璧ですよね。
「六因有りて三悪道に没して出づる事能わず。一には悪心熾盛(ししょう)の故に」
熾盛というのは、燃え盛ってる火のことですね。
熾に火が燃え上がって消えないということです。
六つの原因があって、地獄、餓鬼、畜生の三悪道に落ちてなかなか出ることが出来ないんだということですね。
その一つが、悪心熾盛の如しと、兎に角悪いことばっかり考える。
或は悪いことばっかりする、ということですね。
「二には、後世を見ざるが故に」
後生のことですね。来世のことを考えないんですね、この世が一番ええということで来世のことは考えない。
本当の仏教は、この世のことよりも、あの世が大事なんです。
この世がどんなに良かっても、死んであの世で地獄へ落ちるというんじゃ困るんですよね。
後生ということを考えるということは、因果ということを認めるということになり。
あの世が有るというですね。死んでも命があるんだと、いうことだけを喜んで、そしてその行いの報いというものがどうなるかと、そこまで考えないといけませんね。

それを考えるのが、後世を見るということです。
どういうことをしたらあの世でこうなる、こういうことをしてなかったらあの世で困ると。
そういうそういうことを考えるのを後世を見るということですが、それを見ない。

それを現実主義というのですかね。
死後の世界が無ければ、極楽も地獄も無ければ死ぬ心配は要らんのですよ。
極楽はいいけど、地獄があるから心配なんですよね。
だからその心配を考えて法を説くわけです。
例をお話しますと、これは以前にもお話したと思いますが、初めての人もいますので、ご紹介します。

和尚さんの寺に或るお客さんが来たんですが、この人は80代のお婆さんでしたが始めて来た人でして、和尚さんはその先祖のことも、家族のこともまったく知らないわけです。

それでいろいろ話をしてましたら、坊さんが出てきてその坊さんの周囲が真っ暗で、黒暗地獄ですね。
何処を見ても真っ暗で何も見えないんですよ。
そんな所で長い間いるわけですよ。
その坊さんは明治の人やから100年以上そういう世界に居るんでしょ。
これは辛いと思いますね。まだこれからどれだけ続くか分かりませんね。
それでそのお客さんに、お宅の先祖に坊さんは居られますかと聞きますと、
あ、それは家の主人の父親でございますと。
失礼ですけど、その坊さんの行いはどうでしたかと聞くと、
ああそれはもう成ってないと。
坊さんとしてもそうだけど、一般の人と比較したらそれはもうとんでもないと、いうような親だった。
人まで殺したとは言うてないけど、地獄へ落ちてるわけです。
人を殺したら地獄へ落ちるけど人を殺さなくても地獄へ落ちるんですよ。
因果の道理ですよね。
そういうことを認識しておかんと行いによって、地獄か餓鬼か畜生へ落ちていくわけです。
そういう戒めのお経なんですねこれは。

「三には、求めて煩悩を習うが故に」

欲しい物は貰う。見たいものは見る。食べたい物は食べると。

欲望のままに動くということですね。

欲望は煩悩ですから、欲望の中にも正しい欲望もありますね、世の中を良くしようとか、人を助けようとかいうのはこれは欲望ですけれども。

ここでいうのは欲望ですから、煩悩といってるんですから悪いほうですわね。

そういう悪い心のままに動くというのですね。ちっとも、こういうことをしたらいかん、という自制心がなくて思うがままに煩悩に誘惑されていく。

これが三つ目の原因だというわけですね。

あたりまえのことですけどね、然し、仏教の話を聞いてない人は、なんでそんなことで
地獄へ落ちるんやという疑問を持つんじゃないかと思うんですよね。
やりたいことをして、なんで地獄へ落ちるんだと。