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風そよ吹く心に

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陽が傾き始めた。
トキコは戸締りをすると、お義母さんの家へと出かけた。
すでに夕食の支度にかかっていたお義母さんに「陽性でした」と耳打ちした。
「おめでとう。大事になさいよ。産むんでしょ」
「迷っています。でもたぶん、産みます」
「そう。身体を傷つけちゃいけないわ。ご主人、あ、その子のお父さんには伝えるの?」
「迷ってます。でもたぶん……」
トキコは、首を横に振った。

そんな台所にカナエの夫が飛び込んできた。
「かあさん、お、おふくろ。お、俺 オヤジになるよ」
「何言ってんの! トキコさんはねぇ」
トキコの顔を見たお義母さんに、トキコは、大きく首を横に何度も振り 言ってませんと伝えた。
「おふくろ、何言ってんの。カナに赤ちゃんができたんだぜ。俺の子。俺オヤジ」
満面の笑みでにやけるカナエの夫の様子にトキコは、(あの人もこんなふうに 喜ぶのだろうか)と想像した。そのあと台所に顔を出したカナエは、ぐしゃぐしゃな泣き顔が輝いていた。お義母さんは、濡れていた手をエプロンで拭うとカナエを抱きしめた。
「カナエちゃん、そうなの?良かったわね。え? いつ分かったの?」
「わたしも買ったの。面白半分だったけど、そしたらぁー」
またカナエは、泣きじゃくった。少し羨ましくそれを見ていたトキコを引き寄せると
お義母さんはふたりの娘をぎゅっと抱きしめた。
「まあ、嬉しい。孫がいっぺんに二人もできちゃうのね。そんな気分よ。カナエちゃん、トキコさんも赤ちゃんできていたのよ。どちらの子が先かしらね。もうどっちでも 男でも女の子でも構わないわ。そうよ。両方かもしれないし」
お義母さんの腕の中で、トキコとカナエは、顔を見合わせ笑った。

その日の夕食は、ずいぶんに賑やかになった。
畑帰りのお義父さんが、寿司と酒を買って帰ってきた。
「もう、酒は、お父さんの楽しみでしょ。妊婦さんは飲めないのよ。でも今晩は許すわ」
小言も嬉しそうなお義母さんの手料理はとても美味しかった。

翌日、トキコとカナエは揃って産婦人科医院を訪れ、元気な子宮の中の映像を持ち帰った。
トキコは九週に入るところで、カナエは、五週目ということだった。
トキコは、医者に安定期までの話や 仕事など自分が背負わなければならないことも熱心に尋ねた。
町も町の人もトキコには優しく思えた。人づてに内職の仕事と簡単な事務仕事を紹介してもらった。結婚前の仕事が思い出され、会社にもトキコの真面目さと器用さは役立った。
仕事も見つかったが、出産が終わるまで、家も借りたままで良いということだった。誰よりもお義母さんが楽しみにしているようで、当然の流れのようであった。

秋風も冷たさを感じるようになってきた。
トキコが、お義母さんの家から家へと向かうと、家の前に見知らぬ男が立っていた。
トキコにとっては、ほとんどが見知らぬ人であったのだけれど、その男はトキコを見ると背を向け道の角の方へと歩いていった。辺りを気にしながら、トキコは家へと飛ぶ込み鍵をかけた。その数分後、またその男は家の前に現れた。トキコは、カーテンの隙間から窺い見た。はっと気付いて、戸棚の引き出しを開け、写真を出した。やや年齢は取っているが、その面影は間違いがない。
「馬鹿息子さん?」
トキコは、そっと玄関を開けた。
「あんた 誰?」
トキコを見た男は、玄関に近づき そう尋ねた。
「此処を借りている者です。あの 此処に住んでいたあそこの家の息子さんですか?」
玄関の隙間から指で示して尋ねた。
「そうだよ。あ、それに あんたが持ってるそれ、その写真 俺だし」
「こ、こんにちは。じゃあ、お義母さんのとこへ行かれたら如何ですか?」
「おかあさん? あいつカナエと別れたんかな」
「カナエさんは、あなたの弟さんと幸せに暮していますよ」
「そっかぁ。じゃあ あんたは?」
「わたしは、あなたのおかあさんにお世話になって、敬意を込めてお義母さんと呼ばさせていただいているだけですから」
「あ、そう」
「なんなら、付いていってあげましょうか? 敷居が高いんでしょ」
トキコは、しっかり靴を履くと、その男を斜に見ながらお義母さんの家へと向かった。
「すみませーん。人をお連れしましたぁー」
玄関で、中に呼びかけると、奥からお義父さんが出てきた。
「お。…おまえか。どうした? 帰ってきたんか」
お義母さんも 奥から顔を出した。その男は、お義母さんに腕を捕まれるように玄関から奥へと引っ張って行かれた。
「トキコさん、あいつ変なこと言わんかったかね? ありがとね」
「いえ。あのお家困りませんか?」
「心配いらんよ。今はあんたの家だから」
作品名:風そよ吹く心に 作家名:甜茶