風そよ吹く心に
駅名を確かめると、初めての場所ではあったが、それほど遠くに来たわけではなかった。
それでも、街に住んでいたトキコには、充分に気持ちが変わる場所だった。
駅から、とりあえずバスに乗った。十数分バスに揺られていると、長閑に広がる原っぱの間を一本の道が通っているのが見えた。トキコは、手を伸ばし、壁面についている『停車します』と書かれたボタンを押した。それから僅かでバスは停車した。
「ありがとう」狭い昇降口からトランクとボストンバッグを抱え降りた。
見上げる空は、まだ明るかった。このまま歩いていけば、日暮れの頃には 何処か泊まるところも見つかるだろう。トキコは、田舎道を歩き始めた。
肩にショルダーバッグを掛け、ボストンバッグをトランクの上に載せた。ごろごろと引き摺る振動が掌にじぃーんと響いてきた。ショルダーバッグのポケットから携帯電話を出した。移したアドレスから実家の電話番号を選んだ。
コールを待つのは、胸が苦しかった。
「はい」と母親の声が聞こえた途端、トキコの脚は、その場に止まり竦んだ。
「おかあさん」
「トッコ?」
「わたしね。あ、何にも言わないで聞いてね。わたし、別れたの。離婚した」
受話器の向こうの母親は、何も言わなかった。すぐに声が出なかった。
「……もういい? しゃべって……」
「うん。いいよ」
「何処に居るの? どうなったの? さっきお父さんから電話があって、あっちから連絡があったって。トッコは大丈夫なの? なんで此処へ帰って来ないの?」
「そんなにいろいろ言わないでよ。とりあえず、今日は此処で泊まるから。また連絡する」
トキコは、電話を切ると荷物を整え、また歩き始めた。
秋空にアキアカネが飛んでいた。風に乗るように 風になったように滑らかに飛んでいた。
眩しさを背にしばらく歩いていると、地面に写る自分の影が、徐々に長くなってきた。
振り返ると、空を赤く染める大きな夕陽が眩しく輝いていた。
「綺麗。あ、急がないと 暗くなっちゃう」
トキコは、やや足早になったが、荷物は疲れた身体には重く感じるだけだった。
一台の軽トラックが、トキコを抜かしていった。すると数メートル先でブレーキランプが点き、停車した。助手席のドアが開いて、女の人が降りてきた。
「もう暗くなるよ。何処まで行くの?」
「何処って決めてないんですけど、この辺りに宿ってありますか?」
「そうねぇ。っていうか、あかんけど 荷台に乗せてあげるわ」
「本当ですか? ありがとうございます。助かります」
トキコは、軽トラックを運転していた年配の女性にも挨拶をした。
「あんたは、鍬だからね。どうぞ」
「あ、わたしはカナエ。ちゃんと捕まっててよ」
窓から顔を出してカナエも言った。優しい笑顔にトキコは、安心した。
着いたのは、彼女たちの住まいのようだった。
「今日は、お父さんたち会合でおらんから ご飯でも食べていきなさい」
「そんな。此処まで乗せていただいただけで 充分です」
「いいじゃない。それに この辺りじゃ狸か狐の宿しかないわよ。ね、お義母さん」
トキコは、思わぬ一宿一飯の親切を受けることにした。
その地の野菜なのだろう。採れたての野菜の料理と作ったことのない汁を作る手伝いをして、食事をした。柔らかな布団も敷いてくれた。
そのお礼の代わりに 翌朝、畑仕事を手伝うことにした。