風そよ吹く心に
一ヶ月も経っただろうか。
「じゃあ、今日出してきます」
トキコの声が、朝食を終え、身支度を終えた夫の耳に届いた。
「そっか」
夫が部屋を見回すと、僅かずつ片付けられた広さを感じずにはいられなかった。
「出かける時間よ。報告入れますから。いってらっしゃい」
「トキコ」
「ん」
「どうして承諾した? 俺のこと嫌いになったか?」
トキコは、夫にふぅーっと息をかけた。
「なんだ?」
「空気じゃなくて 風になれば良かった。じゃあね」
夫は、トキコに背を押されて、玄関を出て行った。
ドアが閉まった後も トキコは見送った夫の背中をいつまでも見ている気がした。
――空気のような存在でいたい。
――でも、温かいのか ひんやりとしているのか 触れているだけではわからない。
――かすかな風でも 空気を揺らせば、その温度を感じられたのかもしれない。
――伝えられたのかもしれない。
――あなたからの風は、こんなにも吹いてきたのに 受け止めるだけだった。
――だから、最後まで受け止めるだけ。
夫を見送り、部屋の中を片付けた。頼んであった業者に不要物の引渡しを済ませると、家を出た。玄関の戸締りをする。手に握った鍵を見つめ、キーホルダーを外し、ドアポストに入れかけて躊躇した。鍵を握った手で扉に触れ、部屋を思い浮かべた。
(ガスは、電気は、風呂場の小窓は、トイレの換気扇は、洗面所の新しいタオルは、、、、)
ひと通りの部屋を思い浮かべ、うんと頷き、コトンとドアポストの中に落とした。
トキコは、纏めた荷物を持ち、役所への道を歩いた。最寄りのバス停からバスで二区。歩けない距離ではない。むしろ、風に吹かれて歩きたかった。何となく身体が温かく、風がとても気持ちよく感じていた。
役所は、やや込んでいた。学校、転勤、引越しなどの関係の手続きをする人も多いのだろう。順番を記す番号券を取り、待っていた。このところの疲れの所為か、人ごみの所為か、少し気分が悪くなって 空いた席に腰掛けた。
しばらくして 手に握る券番号が 電光掲示板に点った。手続きは、流れ作業のように容易に終わった。とりあえず、この息苦しい空間から出ることにした。
役所の外の植え込みの石垣に腰をかけ、夫にメールを送った。
『あなたの妻から トキコ になりました』
その後、返信で届いた『了解』の文字を読み終え、腰をあげた。
役所近くには 契約している携帯電話のショップがあり、トキコは立ち寄った。
トキコは、携帯電話を解約し、新規で加入手続きをした。
三年振りに戻った名前を書いた。両親の住む住所を書いた。でも戸籍はトキコだけのものにした。親には頼らない生き方を選んだのだ。
手続きを終え、トキコは大きな駅へと向かった。何処に行くかなど決めてはいなかった。自動チケット販売機の前で考える。後ろに並んだ人が、訝しい顔をして列を移っていった。そのうち、巡回の警察官が構内を回って来た。トキコは、慌ててボタンを押した。
ジャラジャラと幾枚かの小銭が受け皿に落ちてきた。トキコは、その小銭と駅名が印字されたチケットを掴むと、其処を離れた。
駅員さんにチケットを見せ、「この券の乗り場は何処ですか?」と尋ね、ホームに上がった。
平日の昼間のホームは、人も疎らだった。ホームに入って来た電車に、トキコは乗り、席に着いた。疲れた……ふと目を閉じたトキコは、それから少し眠っていた。
「お客さん、終点ですよ」
トキコは、車掌に身体を揺り動かされ、目覚めた。
「あ、すみません」
トキコは、改札口で乗り越し超過料金を払い、その駅を出た。