風そよ吹く心に
夕食の支度のその匂いがダイニングや部屋に漂っても夫は部屋から出てこなかった。
トキコは、その部屋をノックして「ごはんできたよ」と声をかけた。静かな様子に戻りかけた時、トキコの後ろで扉が開いた。
「あ、ごはん……」
夫は、廊下の脇に寄ったトキコを擦り抜けると、テーブルについた。トキコは、内心和らいだ気持ちでそれを見つめ、用意したスープを器に入れた。夫は、きちんと並べられたスプーンでそれを掬い、口に運んだ。
「どう? 美味しい?」
「……なんでだ?」
ふいに言われたその言葉に トキコはどう反応してよいか首を傾げた。
「どうしてもっと早くに そういう事だって言わないんだ?」
トキコには、まだ理解ができなかった。
「旨いかとか、こうしたいとか、もっと俺に関心持てよ。自分の思ったこと言えよ」
トキコは、いつにない夫を見つめるだけだった。
「抱いてるときだって、こうして欲しいとか 気持ちいいとか 何かあるだろ」
「ごめ……」
「ごめんってか。俺は謝って欲しいわけじゃないし、人形相手にしてるわけじゃないんだ」
「ごめんなさい」
トキコは、大粒の涙をテーブルの端に落とした。夫は、椅子から立ち上がると、肩ではっと息を落とすと、トキコの頭を撫でて部屋を出て行った。
その日から、トキコと夫の間には溝ができはじめた。
日常的な動きの中に 見えない異物が邪魔をしているようだった。食事も日常生活も身体を寄せ合うことをしても、埋めたいものが埋まらないまま過ぎていった。
「お互い考えようか」
夫の提案で 夫の会社の夏季休暇は、べつべつに過ごした。
トキコは、実家へひとりで出かけても、夫の忙しさや休みを満喫していることなど、適当に理由を作って、親に心配をかけないように振る舞った。家に戻って、ひとりの空間に佇むとき、頬を濡らした。声を出して泣いた。そんな数日を過ごした。
休暇を終え、戻って来た夫の土産は、何処かの町のクッキーと一枚の紙だった。
その二つ折りになった紙の枠内に夫の文字で書かれた名前と朱色の印が押されていた。
「すまないが、協議ということで出してくれ」
トキコは、頷いた。
「お義母さんたちには?」
「わたしから伝える」
「そっか。トキコからは、何かあるか?」
トキコは、俯き考えたあと、夫に優しい瞳を向けはにかんで言った。
「キス して」
「ああ」
夫が、トキコの肩を引き寄せた。
「あ、待って……ちょっと泣けちゃいそうだから」
トキコは、やや上を向き、何度も瞬きをした。
「ん、大丈夫」
トキコの唇に夫は唇を重ねた。何度も重ねたその唇に温かさを感じながら優しく触れ続けた。舌を絡め、今から始まる恋人同士のように長いキスをした。
夫の唇が離れた時、トキコは、微笑んだ。
(どうして、こんな女と別れるんだ)夫の中で自問自答が繰り返された。
「支度ができるまで、此処に居させてくださいね」
トキコは、それ以上は言わず、家事を始めた。
その日もトキコは、夕食を作った。夫がテーブルにつくと、そっと部屋を出て行った。
翌日の朝も 夜も その次の日も その次の日も 別れ話が嘘のように其処にはふたりが居た。