冬、雪の街
「一部摘出だから。小さくなっただけ」
「ふうん」
俺は窓の外を見た。病院に来る最中に雪が降るのではと思っていたが、本当に降っていた。
「見ろよ、希。雪だ」
「本当。雪見るの今年は初めてだね」
「まあ、昨日の夜に吹雪があったみたいだけどな」
「そうなんだ」
暫くの間、そうやって他愛のない話をしながら降る雪を見つめていた。冬になれば雪が降る。雪は希の好きな物の一つだ。今でも思い出す。
付き合い初めた俺達は逆に距離が開いてしまった。勢いとどうせ断られるだろうと思っていた希には嬉しい誤算。俺には突然すぎて何がなんだかって感じだった。その二人の距離を詰めてくれたのは雪だった。
「デートしよう」
俺は受験勉強の合間に希に言った。
「へ?」
間の抜けた声で希が答える。
「だから、デートだよ。デート。せっかく付き合ったんだからデートぐらいしたってバチは当たんないって」
「う、うん」
「よしきた! それじゃ、映画でも観に行こう。これぞ定番、王道。王道を往く者こそ強者なりってね」
映画はさんざんなものだった。その時にやってた映画で一番おもしろそうだったのがホラー映画だった。別に俺も希もホラー映画が駄目だという人間ではない。が、しかし、問題は映画の方にあった。ものすごくつまらなかったのだ。
ポップコーンを買い、ジュースを買い。席に座った時、異様に周囲がガラガラであることに俺は嫌な予感を覚えた。その嫌な予感は的中した。
クソ映画だった。
これ以上語る必要はあるまい。俺は見る前にネタバレになるからと言っときながら購入したパンフレットをポップコーンの入れ物と一緒に捨てた。
「あの映画、ちょっとな……」
俺は頬を掻きながら言った。
「うん、ちょっとね……」
希も気まずそうにしていた。
何せ初めてのデートで致命的な失敗をしたのだ。パンフレット代八百円が全く惜しくないクソ映画だなんてめったにない。しかし、シネマコンプレックスを出た時、俺達の気分は変わった。
「雪だ」
大きな雪の粒が降りていた。吹雪とまではいかないが、相当な強さだった。実際、少しばかり積もっていた。
「えい!」
不意に頭部に衝撃を受けた。雪だ。希が雪を投げてきたのだ。
「ほほう、宣戦布告もなしに攻撃なんてトラ・トラ・トラか?」
俺も近くの雪を固めて投げた。周りに人なんていなくて遠慮する必要はなかった。俺達は雪を投げ合った。雪合戦だ。
「楽しかったな」
すっかり暗くなって、帰る時間になった。俺は頭についた雪を払いながら言った。
「うん。雪合戦」
「あのクソ映画は雪が積もるまでの暇つぶしだと思おう」
「そうだね」
希はクスクスと笑った。
そんなことがあったんだ。
「希、あのクソ映画覚えているか?」
「忘れるわけないよ。彰彦。すごく怒ってたからね」
「え、そんなに俺怒ってた?」
「うん」
病的なげっそりとした顔でも時間が経てば自然と見慣れるものだった。げっそりとした顔でも愛しい笑顔であることに変わりはなかった。
そんな生活が続いていた。けど、どんなことにも終わりは来るものだった。ある日、俺がバイトに勤しんでいると電話で呼び出された。電話の主は希の母親だった。希の体調が急変したから是非来てくれ。そういった内容だった。俺はほぼ毎日、希のところへ向かっていた。ただ、だんだんと体調が悪くなる希を見ていた。
ご飯も喉に通らなくなり、点滴と湿らせたガーゼを口に当てて何とか生き長らえる希。見ていて俺は泣いてしまいそうだった。ただ、大丈夫だから。その希の一言が逆に俺を強気にさせた。
病人の希が頑張っているのに、俺が泣くわけにはいかなかった。俺は日々、やつれていく希をただ見ることしかできなかった。だけど、それ以下のことだけは絶対にしたくなかった。
雨の日も、風の日も、俺は通った。そうして、いつの間にか冬が来ていた。俺と希が付き合って七年目の冬だった。そして、俺と希の最後の冬だった。
俺は店長に事を伝えると返事も待たずに飛び出した。バイトの制服のままだった。
外は大雪で、寒くて仕方なかった。身体が震えるのは寒さのせいか、それとも希が死ぬのを怖がっているせいか。自問自答もしたくなかった。
俺は雪を蹴り飛ばすように駆けた。何度も途中でこけた。血まみれになって、左親指の骨も折った。すでに閉まっていた病院の急患用のドアから入り、何があったか訊いてくる看護士も放っておいて希のいる部屋へと向かった。
部屋についたとき、俺を見て希は笑った。もういつ死んでもおかしくない身体で、自分の身体だというのにどこも動かせないというのに、希は笑った。
必死だね。
希の唇がそう告げたように見えた。
俺は希の両親に挨拶をした。
両親は血まみれの俺を訝しんだが、そんなことより娘の方が重要だった。医者、看護士、俺、希の両親は息を飲んで希を見守っていた。ただ、希の心臓が弱っている音を響かせる警告音だけがうるさかった。
少しするとさっきの入り口の看護士が俺を見つけた。血まみれであることを問うてきたが、俺はあとにしてくださいとすごい剣幕でいうことしかしなかった。
希が瞳を閉じた。そして、そのまま、ゆっくりと死んだ。
俺は泣けなかった。希の両親はものすごい量の涙をこぼしていた。
けど、だからどうした?
俺の心は閉じていた。涙がアクセサリーのように見えた。希が死んだなんて信じられなかった。嘘だろ、希。実はまだ生きているんだろう。この機械のピーって鳴っているのは故障なんだろう。俺はそこで折れた左親指の痛みを感じだした。
希が死んで、時が流れ始めたのだと俺は感じた。
俺は希の両親に挨拶をするとそのまま看護士に連れられて処置室に入った。親指を固定して包帯をぐるぐるまいて、ついでに全身の擦過傷も消毒させられて絆創膏を貼った。
希は死んだのかな?
そんなことだけをぼんやりと考えていた。
気がつけば、俺はバイトを辞めていた。勝手に出て行った俺にキレた店長に俺はじゃあ、仕事辞めますと言って辞めた。貯金はたくさんあったのでしばらくは生活に困らないなーって考えていた。
俺の両親からも電話が来た。希ちゃんが死んだんだからお前ももうそこにいなくてもいいじゃないか? 労る言葉が逆に心を掴んだ。俺は言った。いい、まだここにあるから。
自分でもわけが分からない言葉だった。
希の葬式が気がつけば起きて、それでも俺は涙が出なくて、希の親戚だけが集まる火葬場に俺も希の両親の取り計らいで来れて、でも気まずいから希の死体が燃えている間は外にいた。
外で雪だるまを作っていた。昔、雪合戦したなって思い出しながら俺は一人で雪だるまを作っていた。雪だるまが完成したら俺はロビーに向かった。暖かい珈琲を飲みながら死体が燃えるのを待った。一時間かけて骨になった希を見て、あれ、希はどこに行ったのかな? なんて考えた。どこの骨かも分からない骨を骨壷に入れた。
希の両親は俺に感謝の言葉を告げるとノートを一冊俺に渡した。
希が書いたの。貴方宛に。
はい、わかりました。
俺は受け取った。