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夏の扉

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「わたしはね、綾瀬さんや西さん、それにあなたを特別おかしいとは思わない。むしろ正常だ。旺盛すぎる想像力が生み出した副作用だ。わたしから見れば、あなたや綾瀬さんを異常だと決めつけた『向こう側』の人間たちがよほど異常だ。すべてに終わりが来ることを、みんな忘れている。気づかないふりをしている。ええ、なにごとも、すべて、いいことも悪いことも、みんな終わりがあるんだってね。そうですよね」
 稲村はベッドに腰かけたまま、しかし彼の意識がしだいに熱を帯びはじめているのがわかった。怜は思った。これは、氷に不意に触れてしまったとき、一瞬指先が熱さを感じてしまうのに似ていると。ある一定以上の温度に触れたとき、人はそれが熱いのか冷たいのか、瞬間的には理解できない。
「『向こう側』?」
「『終わり』がくることを認めたくない人たち。そう言えばいいのでしょうか。有り体に言えばね」
 夏の風が空き瓶の名前もわからない花を揺らしていた。それがかつてこの街の初夏を彩った花であることを、怜は知らなかった。もはや盛夏と呼べるこの季節に、デスクの上の空き瓶の中で、失われた季節の断片が無造作に放り込まれていることなど、気づかなかった。
「僕はただ」
 揺れる小ぶりな房をながめ、怜はつぶやいた。そうしないと稲村の熱い冷気が花を枯らしてしまうように思えたからだ。
「『終わり』を、ただ終わっていく風景を見ていただけだ。鳴海さんのようにまだ終わってもいないものを見て、その……『終わり』の姿が見えるなんてことはなかった」
 言って自分の言葉がひどく回りくどくわかりづらいものであると、壁にぶち当たって戻ってきたセリフを聞き、感じた。稲村の耳には届いただろうか。
「あなたはたとえば水没していく街や海岸線を歩いて、それを『終わっていく風景』だと思った。では訊きましょう。あなたの同僚で、あなたの知り合いで、そういった風景を見て、『終わっていく風景だ』と感想を漏らした人がいましたか」
 レーションをまだ口に残し、<ターミナル>片手に泥の路地を歩いていた同僚の姿を思い出す。彼はなにも感じていなかったのだろうか。怜と同じく、この街に住み、三ヶ月ごとに書き換えられる地図をクリップボードにはさんで、食欲もない胃を満たすだけのレーションをかじっていた彼は。
「そんな質問、したことがない」
「質問はしなくても、あなたは訊いた。だから、あなたは同僚に『感受性が豊か過ぎるんだ』とからかわれたことがあったんじゃなかったですか」
 稲村はカルテも見ずにさらりと言ってのけた。よく憶えている。流行り病に冒されたと、奇妙な熱にうなされてつい目の前のカウンセラーにこぼした熱のかけらを、当の本人はすっかり忘れていたのに、ベッドに腰かけ涼しげな顔をして掘り起こす。
「あなたは、『終わり』を自覚していた。すべてに『終わり』があることに気づいた。それだけでも十分です。あなたと綾瀬さんが決定的にちがうことはね、あの子は『終わり』を『見て』しまうだけだが、あなたは『終わり』を受け入れているってことだ」
「そうですか?」
「最初ここに来たときは違った。まだあなたは『終わり』がくることに納得していなかった。そんな顔をしていた。けれどいまは少し違うようです。あなたはある程度納得している。すべてに『終わり』があるんだってね」
 怜はずっと考えていた。遠くから聞こえる稲村の声を感じながら、デスクの上で揺れる青い、いや、紫がかったこの花の名前をだ。見たことがない、それは間違いだ。僕はこの花を知っている。ただ、こんな季節に咲いているから、場違いだから、僕の記憶のページがおかしなところで欠落してしまったんだ。
 Lilac。
 思い出した。しかも怜は花の名を英文で読みあげていた。
「おや、この花の名前ですね。きれいでしょう。子どもたちが上で栽培しているんですよ」
「こんな季節の花じゃないはずです」
「水耕栽培ですよ。子どもたちは植物を育てるのが上手なんだ。あなたもここの野菜は食べたでしょう。おいしくなかったですか」
 怜は応えなかった。そして、いま怜は、明日香がなぜ子どもたちを嫌っているのか、わかる気がした。『終わり』が来ることを知りすぎるのもよくない。なるほど、あきらめだ。<施設>に通うようになった最初のころ、入所者たちに諦観の色を見たのは、間違いではなかった。みんな、あきらめている。子どもたちですら、あきらめている。だから『終わって』しまった世界を、自分たちの手のひらの中で作り出し、それを愛でている。そこに思い至って、怜はぞっとした。稲村が『向こう側』と呼ぶ街の人たち、つまるところ<機構>がやっていることと目の前で揺れるライラックは、同じだ。『終わり』を認めたくなくてしきりにもがき、風車をあちこちに建てひまわりを植え付けることと、『終わり』を認め、あきらめを土のない畑にまき、ライラックやトマトを育てることと、どう違うのだろう。
「僕は、本当に変わったんですか。病気は、本当に治りかけているんですか」
 稲村を見ず、空き瓶のライラックの花弁を数えながら、窓の外で葉がざわめくのを聞きながら、怜は訊いた。
「もともと、あなたは病気じゃないんです。眠れない、不安だ、恐ろしい夢を見る。そんなものは病気じゃない、はるか昔から人間が罹ってきた軽い風邪のようなものだ。いずれ治る。きちんと療養すればね。あなたは自分が風邪をひいたことに驚いたんだ。ひとは病気になると、弱くなる。心がね。関係のないことまで、全部病気のせいにする。いまの時代、それが強烈なだけです。みんな、病気に驚いて、すべてをその軽い風邪のせいにしたがっている。それだけの話だ。あなたの風邪はもう治っている。どこかおかしい、そう感じるのは、風邪が治ったからだ。熱にうなされることもなくなったから、ものごとがすべてくっきりと見えるようになったんですよ」
「じゃあ、鳴海さんや西さんは、風邪が治っていないんですか」
「それも、少し違う。治っていないわけじゃない。治そうとしていなんだ。あの子たちはね。熱が引いてしまうと、悪い夢を見ても熱のせいにできなくなる。見えないものが見える、聞こえない音が聞こえる。そんなことも、風邪を引いていれば、『熱にうなされた』、この一言で済まされるから」
 怜はそっと、汗をぬぐうふりをして、手の甲を額にあててみた。予想外に冷たかった。気化熱だ。蒸発する水分は気化するさいに体温を奪っていく。熱は冷めた。本当に? ただ、下がらない熱を布団の中で毒づきながら、額に浮いた汗をふらつきながらぬぐっただけではないのか? 目を回しながら。だから怜はこんどは手のひらをあてた。
 手のひらは、熱かった。
「暑いですか。エアコンを入れましょうか」
「大丈夫です」
「本当に」
「ええ。ただ、僕は熱が下がったのかどうか、……確かめたかっただけで」
 すると稲村は微笑んだ。大丈夫、もう心配いりませんよ。熱も下がったし、あときょうと明日ゆっくり休めば、来週から学校に行けますよ。小さい頃、『本物』の風邪に罹って訪れた医院で、母親の横に座って見た初老の医師の笑顔と稲村が重なった。
「大丈夫。もう心配いりませんよ。もう少し休めば、仕事に戻れます。戻りたいと思えばね」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介