夏の扉
怜ははっとして稲村を向いた。彼はただ穏やかな笑みを浮かべて、診察台に腰かけたままだった。
「もっとも、わたしはカウンセラーだ。残念ながら内科医じゃないんでね、あなたの熱が下がったのかどうか、本当のところはわからないんですよ」
稲村は声をたてて笑った。低く、肩を揺らして。
診察は終わった。稲村はデスクに戻り、処方箋を書いた。あいかわらずなにを書いてあるのかさっぱりわからない彼の字で。<機構>の管理下にあってもなくても、いまどき手がきの処方箋だ。怜は立ち上がり、一礼。開け放ったドア、開け放った窓。吹きぬける空気、揺れるライラック。<施設>に抱くイメージはいまもかわらない。ここでは、時間が止められている。意思を持った誰かに。
熱は下がった、か。
怜は身を翻し、診察室を出ようとした。が、稲村に一言、質問があった。ずっと用意していた質問だ。自分についてではなく、他人について。
「鳴海さんは、元気にしてますか」
すると何事かペンを持ち書きものをしていた稲村は顔を上げ、怜を向いた。さきほど見せた笑顔はなかった。
「あなたと出かけた海のことを、このあいだ話してくれました」
「なにか、言ってましたか」
「楽しかった、と」
左利きの医師はゆっくりと瞬きを繰り返す。ライラックの香りが漂っていた。こんなにも香りの強い花なのだろうか。
「そうですか。あの人、そう言ってくれましたか」
「驚きましたよ。……なにがそう言わせたのか知りませんが、わたしは綾瀬さんの口から『楽しかった』なんて言葉を聞くことになるとは、正直思っていなかった。意外でした」
「二階にいるんですか」
「おそらく。有田さんが出て行ってから、あの子はずっと部屋にこもったきり、出てきませんよ」
そう言えば。ずっと気になっていたことがもうひとつ。あの老婦人はどこへ行ってしまったのか。どこに収容されたのか。息災か。
「有田さんは、いま、どこに?」
「もっと医療設備のととのった、街の病院です。あの人の場合、心じゃない、身体が問題になってしまったから」
「そんなに悪かったんですか」
「年齢が年齢だ。大事をとってね。あなたが心配するほどに悪くはない。けれど楽観的になれるほどに良好でもない。そんな具合です」
「ここへは、戻ってこられるんですか」
「もうここを離れるあなたが気にすることじゃない。そう言うと少し冷たいかな。ええ、おそらくもう、ここへ戻ってくることはないでしょう」
「会えますか」
「あなたが?」
「僕以外の誰が?」
「……、会えますよ、たぶんね。面会謝絶だとは聞いてない。病院といっても、ここより多少設備がましなだけで、やはり療養施設のようなところに入ったんです。会おうと思えば会えるでしょう。あなたに会おうとする気持ちがあって、そして有田さんもあなたに会ってもかまわないと思えばね」
「会ってはくれませんか」
「それは、わたしに訊かれても困る。わたしは有田さんでも、有田さんの主治医でもない」
「だったら、河東先生に訊けばわかるんでしょうか。僕は話したことはないが、河東先生は有田さんのカウンセラーだったんでしょう」
言うと稲村は大きくうなずいた。
「けれど、いまは違う。もう有田さんはここの入所者ではなくなったんですよ」
「では」
怜は稲村と正対した。
「僕が訪ねて行っても、とりわけ問題はないってことですよね」
「あちらがいいと言えばね。ま、あなたは<機構>の人間だ。発電所の事故の後遺症を調べているとでも言えば、フリーパスだ。きっとね」
きょうの稲村はひどくシニカルな物言いをする。まるで、明日香だ。
「お見舞いに行くなら、よろしく言ってください。有田さんはもう、わたしのことなど忘れてしまったかも知れないがね」
稲村はそれだけ言うと、もとどおり視線をデスクに戻し、それっきり怜を向こうとはしなかった。ペンが滑る音が外から流れ込む葉のざわめきに負けていなかった。怜は踵を返し、そして診察室を出た。
廊下がいやにひんやりとしていた。あたりまえだ、エアコンが効いている。
待合室で煙草を喫った。<施設>の空調は、なかでもエアコンは大げさすぎる。少し効きすぎなのだ。電力はあんがい潤沢なのかもしれない。やはり<施設>のガラスというガラス、外壁という外壁はすべて光発電パネルだと考えるしかない。ぼんやりと煙草をはさんだ指を眺めながら、怜はそんなことを考えていた。彼をとりまく時間の流れは、いままた流れはじめていた。環境調査員を休職し、淀みにはまったつもりでいたのに、ひそかに時間は流れ続けていた。だから稲村は治療の終了を予告したのだ。
徐々にフィルターへと近づく火を意識することもなく、怜は電車を待っていた。正確には、待つふりをしていた。彼が待っているのは、帰りの電車ではなかった。彼女だ。
あの外出以来、怜は<施設>を訪れなかった。そもそも診察以外で病院を訪れる患者など、見舞い客をのぞいてはいるはずもない。しかも自分は正真正銘医療保険の適応を受けた患者だ。患者が用もないのに病院に訪れるなど聞いたこともない。ようするに目的がなかった。だから来なかった。あの外出は、いわば見舞いだった。鳴海を見舞いに来たのだ。回復を願って<施設>を連れ出したのに、結果、怜は鳴海の錯乱を二度見ることになってしまった。自分に原因があるのだろうか。帰り道、助手席に一片のひまわりの花びらを見つけて、怜は考えた。白昼夢を見、涙をためていた鳴海の横顔や、橋からひまわりを投じた彼女の背中を思い出しながら。怜は何人もの彼女を知っていた。鳴海はひとりだけではない。彼女は彼女の中に何人もの鳴海を囲っている。その一人一人が彼女の感情であり、舞台が暗転する間もなく役者は入れ替わる。あまりに唐突に。
怜自身も自分の中に何人かの白石怜がいることを知っている。けれど全員はつながっている。役者が交代するときも、観客に気づかれないよう、慎重に巧妙に表情を変える。しかし鳴海の場合は違う。それぞれの彼女たちはつながっていない。入れ物だけが同じで、内側に湛えられた限りなく液体に近い彼女は、唐突に表情を変えてしまう。結晶化できない、やわでもろい存在だ。
煙草をはさんだ指が熱い。火はフィルターを焦がしていた。あわてて灰皿に押しつけ、消した。エアコンが稼動しているから、煙の層もできやしない。
怜は待っていた。
鳴海が一階に下りてくるのを。
怜はもう、二階への階段を上れなかった。稲村に治療の終了を予告されたからではない。もう怜はわかっていた。結局自分は<施設>の人間ではないのだということ。エントランスから待合室、廊下を経て診察室まで、そこまでが外の人間に立ち入ることの許された空間なのだ。階段に一段脚をのせた瞬間から、怜は完全な客人になる。そう、二階は彼女たちの世界だ。それは入所者たちがほとんど一階へ下りてこないことからもわかる。怜がいま腰かけている談話室の長椅子の、その数メートル頭上に広がっている彼女たちの世界を、遠く感じていた。



