夏の扉
稲村は言うが早いか窓を開け放ち、腕を組んで外を向いていた。開け放った窓からは、樹の匂いがした。怜はあの外出の日の、ひまわりの丘を思い出す。
「エアコンを止めれば、こうだ。暑い。ずいぶんわがままだと思いませんか」
「なにがです」
「わたしたちがです。勝手気ままに暮らしたあげく、こんな世界にしてしまった。わかっています。じき、ここは海の底に沈みます。三年後か、五年後か。そう遠くはない時期にね。そしてみんなバラバラになる。わたしもきっとどこかに転勤だ。<機構>の人間ではないから、いったいどこに赴任させられるか、皆目見当もつかない。友人がひとり、オハの海上プラットホームで医師をやってる。ひとりで一五〇人の作業員の面倒を見ているんだそうです。知っていますか、海上プラットホーム」
「メタンハイドレートの採掘基地でしょう。うちの簡易測候所がありますよ。メタンは温室効果のバロメーターですから」
「三六○度が海だ。けれど一日プラットホームの中にいると、いまが昼なのか夜なのか、わからなくなると友人はぼやいてましたよ。そんなところにでも赴任したら、わたしが彼の患者になってしまう」
稲村の白衣が風をはらんで舞っていた。エアコンよりよほど心地いい。
「先生も電話を使うことがあるんですか」
「どうしてです」
「その、プラットホームのお友達とは電話でやりとりをしているんじゃないんですか?」
「それこそ<機構>の人間でもないのに、専用回線をもっているはずがないじゃないですか。手紙ですよ。時代は変わっても、郵政公社は優秀なんです」
「僕は一応<機構>の人間だけれど、電話は持っていなかった」
「呼び出しはどうしていたんですか?」
「個人携帯用の端末があるんです。単に<ターミナル>って呼ばれてましたけど。見たことないですか。リアルタイムの音声通話はできないけれど、文字のやりとりはできる」
「知りませんね」
「休職してからこっち、電源を入れたことがないんですけどね。持ち歩いたこともない」
「嫌いなんですか」
「拘束されるのは」
「なるほど」
医師は振り向いて、一、二度うなずいた。それがなにを意味しているのか、なににたいしてうなづいたのか、怜には読みとれなかった。稲村はそのまま診察台に腰かけた。ピンと張ったシーツに幾本ものしわが寄るのを、怜は何気に数えていた。
「暑くないですか」
「暑いですね」
「それが、わたしはあんがい暑くない。体機能障害でしょうかね」
「体質じゃないですか。僕は暑すぎるのも寒すぎるのも嫌いです。<団地>なんかに住んでしまったからかな」
「みんながうらやましがるんじゃないですか? その歳で<団地>住まいなんて」
「僕が<機構>の人間だからですか。でもきっと、稲村先生が思っているほど、<機構>は選民思想を持っていないと思いますよ」
「けれど、わたしの知り合いで<団地>に住んでいる人間はあなた以外にいない」
「外に、お知り合いがいるんですか」
言外に驚嘆を露にした怜に、稲村は首を軽くかしげて微笑んだ。
「しばらく会ってはいませんけどね。わたしもここの住人だ」
「すみません」
「どうして謝るんです。謝る必要などない。けれど、きっとあなたから見れば、わたしもここの入院患者と同じなんでしょう? 違いますか」
微笑を浮かべたままの稲村に、怜は無抵抗にうなずくところだった。たしかにそう思っていた。
「そうです。わたしも、もう気がつけばここに入院している人たち、綾瀬さんや芹沢さんたちと同じ、すっかりもとの世界へは戻れない人間になってしまったのだと思う。戻りたいとも思わなくなってしまいました。ときどきここを出て、旧市街のすぐそばまで散歩に出かけます。この話はしたことがありますよね」
怜はうなずく。
「けれど、帰ってきてしまう。街の手前でね。すぐそばまで出かけても、街に入って買い物を、なんて気は起こらなくなってしまった。まして、街の人間となにか話をするなんてね。おかしなものです」
「僕も街の人間です」
「その前に、あなたはわたしの『患者』だ。わたしはそう見てしまう。だからあなたとはこうして話しができる」
怜は居住まいを正した。というより、ベッドに腰かけた稲村に身体を向けただけだ。椅子がきしんだ。耳障りな音。
「けれどだんだんあなたと話がしづらくなってきたのもまた、事実だ。どこかね、噛み合わない。もうわたしたちは医師と患者の関係ではない」
「じゃあ、どんな関係だっていうんです?」
「一療養施設のカウンセラーと、統合社会管制機構の環境調査員、とでも言えばいいのかな。少なくともわたしにはそう思える」
「どういう意味です」
回りくどい稲村の物言いが、きょうの怜には少々居心地が悪かった。
「あと、三回。きょうを入れれば、あと四回で、つまり今月いっぱいで、あなたの診察は終了します。それが言いたかった」
「終了?」
「通院は、終わりです。あなたはもう、復職しても大丈夫だ。でもまだ様子を見なければならない。そのための通院です。あなたには言っていなかったが、ここ二週間、あなたに処方していた薬の濃度をね、半分に減らしていたんです。それでも悪い夢も見なくなったのだという。もちろん、回復期の患者さんにこんなことを言っては逆効果のこともあります。でもあなたには本当のことを告げても、もう大丈夫だ。あなたはすっかり、街の人間の顔に戻っていますよ。それこそ、鏡を見てみてください」
診察室のドアは開け放ったままだ。そうしないと退室するたびに稲村に呼び止められ、ドアを開放するように指示される。だから窓から吹き込む風が、そのまま廊下へ抜けていく。頬を額をなでつける空気が、たしかに暑い。
「治った、っていうことですか」
「端的に言えば。けれど白石さん。いまだから言うが、あなたがはじめてここの椅子に座り、わたしと対面したときも、わたしはあなたのどこが悪いのか正直よくわからなかった。ひどく重症のようにも見えたけれど、どこも悪くないように見えた。紹介状を読んでも、まだあなたが<病>に冒されているなんてね、思えなかったんです。たしかに検査の結果だけを追えば、あなたは正常値を逸脱していた。それも著しくね。わたしはマニュアルにしたがって処方箋を書いていただけだ。いつかあなたに言ったこと、そう、あなたが<機構>の人間だと知って、<機構>が意図的に送りこんできた調査員じゃないかと疑ったことがあった。それは、あなたはどこからどう見ても、わたしが知っている街の人間そのままの顔をしていたからだ。まあ、裏を返せば、街の人間は全員、もちろん<機構>の人間も含めてね、全員がもう正常ではないことの証だったのかもしれないが、もしかりに街の人間全員が正常でないのだとしたら、もはやわたしたち<施設>の人間が正常なのではなくて、もうこの世の中の人間全員が正常じゃないということになる。もしそうなら、わたしにはお手上げだ。
白石さん。あなたは環境調査員だ。あなたはこの世の中が変わっていく風景を最前線で見つめてきた。綾瀬さんが『見える』という『終わり』を、あなたはその目で実際に見てきた。『終わり』ではなくて、『終わった』風景を。そうですよね」
怜はただうなずく。



