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夏の扉

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 明日香の声音はいつもの彼女のものだ。鳴海を追って階下に下りてきた彼女とは、まったく別人だ。どこで入れ替わったのか。鳴海の肩を抱いて青ざめていた明日香が、ひょっとすると真実なのだろうか。普段の彼女は虚勢をせいいっぱい張っているのだろうか。けれど怜はそのことを明日香に訊くことができない。いまの明日香は完全装備だ。怜の向ける言葉のすべてを跳ね返そうと、それに躍起になっているように見える。怜は彼女が自分より年下であることを、すっかり忘れて話をしていた。
「帰るさ。帰るよ。きょうは、ひさしぶりに疲れた」
「診察もないのに、こんなところによく来るわ。やっぱり鳴海さんのことが好きなのね」
「そんな感情、残念ながら僕は持ち合わせていないよ。ただ、そう、君と同じさ。放っておけないんだよ」
 あのひまわりを、鳴海はどうしたろうか。それだけでも確かめたかった。
「いま、鳴海さんの部屋に行くのは、まずいんだろうね」
「行こうとしたら、わたしが止めるわ」
「そうか。わかったよ」
 怜はそう言うと腰を浮かせた。たしかにきょうは疲れた。わかった。もう帰ろう。
「あのひとは、あなたなんかに渡さない」
 そう明日香がつぶやいたのを、怜は聞いた。怜の動きが止まった。帰ろうと席を立ち、軽く手をあげ明日香に別れを告げようとした動きが、止まった。
「お疲れさま」
 明日香はもう怜を向こうとしなかった。ふたたび爪をいじりながら、脚をだらしなく放り出していた。
 怜ももうそれ以上彼女と話す気にもならず、ちらりと廊下に目を向け、鳴海の部屋の扉を探す。廊下に並ぶすべての扉は閉ざされていて、等間隔で並ぶ蛍光灯のせいか、距離感が希薄だ。だからどの扉が鳴海の部屋の入り口なのか、怜にはさっぱりわからなかった。
 階下からオルガンが聞こえていた。


   四八、青い花

 ミルクの空き瓶に、きょうは怜の知らない花が活けてあった。青い花だ。葉の緑が濃く、花弁の青が浮き立っていた。ほのかに漂う香りは、怜がいつも使っているシャンプーに似ていた。そう、ちょっと作り物めいた、大げさなほどの香りだ。診察室の窓は閉じていて、エアコンが稼動していた。稲村は白衣の下も長袖だった。怜もまた、長袖だ。仕事の癖はいつまでたっても抜けない。紫外線を恐れているのかというと、<機構>が呼びかけているほどには恐れていない。ただ、起きて外が晴れていると、つい長袖を選んでしまうだけだ。服務規程にそう書いてあったからだ。自分はまだ調査員だ。ただ、休職しているだけ。
「今週から、薬を減らしてみましょう。もう、悪い夢もほとんど見なくなったんでしょう?」
 あいかわらず、稲村は半身のみをこちらに向ける。左手のペンがクリップボードの上で流れるように走る。
「あまり」
 怜は床のうねりを数えていた。タイルに入った亀裂の枝を数えていた。遠くに聞こえるセミの声のような、エアコンの稼動音が耳障りだった。
「まだ見ることがある?」
「いえ、前みたいなことは、もうほとんどないです」
 それは本当だ。全身汗みずくになり、ベッドから跳ね起きるようなこともなくなった。就寝前に処方された薬を水で流し込む。そして、ベッドサイドの灯りを消し、瞼を閉じる。調査員時代は、その日のできごとが早回しでよみがえった。ずぶりと踏み込んだ沼地に脚を取られ、ベッドの中にいるのがわかっていながら、はてしなく自分が沈んでいくような錯覚に陥ったり、廃墟を観測機を抱えて歩き回ったその重さがどっしりと両腕に戻ってきた。眠れない夜とはよく言ったもので、無理に眠ろうとすればするほど、目がさえた。夜が疎ましかった。
「よく眠れているのなら、言うことなしですね」
「そうなんですか」
「少なくとも、顔色がいい」
 顔色。自分の顔をまともに見たことなどない。他人の顔色ばかりが目に付く。稲村の顔色は、蛍光灯のせいだろうか、よくわからなかった。蛍光灯の下では、誰もが死人のような顔色になる。
「稲村先生は、鏡を持っていますか?」
「なんだって?」
「鏡です。顔を見る」
 稲村のペン先がとまった。
「洗面所にありますよ」
「自分では持っていないんですか」
「わたしはね。化粧をするわけでもないから、洗面所にある鏡で十分ですよ」
 稲村は苦笑した。
「そうですか」
 怜はなかば稲村の答えを予想していた。
「でも、どうしてそんなことを訊くんですか? いきなり鏡のことなんて」
 ふたたびペンを走らせ、稲村は視線をクリップボードに戻した。いったいなにを書いているのか、怜にはまったくうかがい知ることができない。小気味よい音をたててペン先は滑っていくのだけれど、怜はその稲村の姿が、受付の女の子とダブってしかたがなかった。
「ここの人たちはみんな、自分の顔を見たことがないみたいだから」
 怜の言葉に稲村はしばし口をつぐんだ。ペンを持った指もはたと止まってしまった。怜は自分の言葉がいささか不用意だったのかもしれないと、もはや投げかけたセリフを回収することができなくなったいま、首筋を二度かくことでその気持ちをごまかした。
 稲村がペンを置いた。ペンはクリップボードの上を転がり、そしてあのミルクの空き瓶に当たり、カツンとかすかな音をたてて止まった。
「ずいぶんあなたは……」
 ペンを置いた稲村は、ゆっくりと瞬きをしてつぶやいた。そして続けた。
「変わった」
 変わった? 誰が変わったというのだ。怜は稲村の言をしっかりと受けとめることができなかった。
「僕が、ですか?」
「ええ。四ヶ月前、はじめてここに来たときとはずいぶん違う。いい意味でね」
 四ヶ月。医師に言われ、怜は気づいた。季節が移ろったのは知っている。けれど、四ヶ月という時間が流れていたことには気がつかないでいた。暦が日一日とめくられていくことを、時計の針がけっして止まることなく時を刻み続けていたことを、怜は危うく忘れるところだった。
「夏がきてしまった」
 医師はつづける。まるでモノローグのように。
「けれどときどき思うんです。こんなに春と夏の区別があいまいだったかとね。春は春、夏は夏、きっちりと分けられていたのではないけれど、それなりに区別があったような気がする。どうです、白石さん。環境調査員のあなたなら、なぜわたしがそう思うのか、説明できるんじゃないですか?」
「説明もなにも。春が昔よりも早くきて、夏が昔より強烈になっただけですよ。緯度が、ちょうど十度は低くなった計算です」
「あなたは昔の気候を知らないから」
 稲村は席を立った。席を立ち、怜の横を過ぎて入り口に向かった。出て行くのかと怜は思ったが、稲村はドアの横、壁に埋め込まれたパネルのボタンをいくつか叩いただけだった。
「エアコンを止めてみましたよ。白石さん、気象通報は聞いてきましたか? きょうの最高気温は何度です?」
「さあ……知りません」
「外気温計はもう三一度を指してる。十一時前だというのにね。湿度は、ああ、八七パーセント。このあたりは海からの湿気がひどいんです。どうです、来るとき暑くはなかったですか?」
「暑かったですよ。でもここは風が吹くから」
「風か。窓を開けてみましょうか」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介