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夏の扉

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 とたんに明日香の瞳が右往左往しはじめた。ちょうど少し前の自分を探しているように。どこにいったんだろう。そんな顔をしていたって? 嘘だ。明日香の目がそう言っていた。
「バカになんかしていない。僕にはそう見えたってだけの話だよ。きっと君はさびしがり屋なんだよ。気づいていないだけで」
「わたしが、さびしがり屋だって?」
 明日香の声が甲高い。廊下の向こうまで飛んでいった。
「ちがうのかい?」
「ちがうわ」
 にこりともせず、明日香は濃い眉をしかめた。そして怜は気づいた。ふとした瞬間に顔をのぞかせる明日香のあどけなさは、きっとこの濃い眉にあるにちがいない。太いわけではない。ただ、くっきりと黒い眉なのだ。その眉は、鋭い瞳や斜にかまえた態度以上によく動く。彼女の感情はきっと、よく動く眉に現れている。もっと早くに気づけばよかった。
「あなたは、どうなのよ」
 くっきりした眉をしかめたまま、明日香は言った。
「僕は、さびしいと感じたことは、ないよ」
「本当に」
「さあね。でも、僕は<機構>に入る前、学生をやってたころからずっとひとりだった。けれどさびしいと思ったことはなかったよ。ひとりでいるのは、苦にならない」
「じゃあ、どうして鳴海さんを誘って海を見に行ったりしたの? ひとりで行けばよかったんじゃないの?」
 怜はしばし考える。ひとりで行けばよかったのかもしれない。なにも彼女を連れて行くことはなかった。ひとりで海を見、そしてやはりあの男に出会ったのだろうか。そしてあの男とひまわり畑を歩き、手折ったひまわりを助手席に載せて帰ってきたのだろうか。
「僕は、鳴海さんは、ここから出たがっているように見えたんだ。ここが嫌で出て行こうと思っているとか、そういうことじゃなくて、単に、外に出たがっているように思えたんだ。そういう風に見えたことがないかい?」
 君も、外に出てみたくはないのかい? 怜はつけくわえようと思ったが、やめた。
「鳴海さんが? 談話室にいるより自分の部屋にこもっていることのほうが多いのに?」
「見たことないかな。あの子が下の中庭をぶらぶら散歩しているのを」
 地雷原を歩くように。
「こう、足元を確かめるように、頼りなく、芝生の上をね。踊ってるみたいなこともあったよ。僕は何度か見たことがあるんだ。そんな鳴海さんを見て、外に出たいんじゃないかって、思ったんだ」
「中庭を?」
「そう」
「知らないな。鳴海さん、ときどきカウンセリングのあと、なかなか上がってこないことがあるけど、そうなんだ、中庭にいたんだ」
「君は、中庭に出たりはしないんだね」
「しない」
「どうして」
「用もないのに、一階に下りたくはないわ。子どもたちがいるし。なにが面白いのか知らないけど、真琴はしょっちゅう下りていくけど」
「君は子どもたちが嫌いなのかい?」
「嫌い」
「どうして」
「理由は、……真琴に訊いて。全部話したから」
「言いたくないんだったらいいさ」
 蛍光灯の照明が、もうすっかり明るい。それだけ外が暗くなってきたにちがいない。カーテンが引かれた窓から外はうかがえないが、あれほど騒いでいた陽の光は、もう談話室には逃げ込んでこなかった。夜だ。夜がはじまっている。陽は闇に追い出されてしまった。そして話題が散漫な二人の会話は、まだ続きそうだった。怜は煙草を喫いたかった。手持ちぶさたになると、ポケットの中のライターに無意識に触れている。明日香は喉が乾いていた。飲み慣れないレモネードが喉を焼いて、痛みすら感じていた。だからいまはひたすら、真琴が飲んでいたクラッシュ・アイスいっぱいの氷水が飲みたかった。
「鳴海さん、部屋にいるのかい?」
 明日香と向かい合っていると、なぜか息が詰まる。いや、鳴海と向かい合っていてもそうだ。ちがう、自分は誰かと対峙するとき、きまっていつも気が詰まる。いままでは沈黙でそれに耐えた。同僚の調査員たちもそれを心得ていた。怜の前で無駄口をたたく人間はいなかった。怜は職場で応えを期待されていなかった。まだ観測機器のほうがましだ、操作に反応した。自分はアプリケーションの一部だとそのうち考えるようになった。感情を露にすると発狂しそうになる。とりわけ、捨てられた街を歩くときは。
「知らない。いるんじゃない」
 明日香はテーブルの下で組んだ両の指に視線を落として、伸びはじめた爪が気になっていた。切らないといけない。爪切りは、どこにしまってあったっけ。前いた施設では、刃物は厳重に管理されていた。凶器として扱われていたわけではなかった。自傷防止のためだった。それでも月に何人かは発作的に自らの腕や脚を切りつける患者が絶えなかった。そんな場所にはもう戻りたくない。みんな同じ療養服を着せられ、午後六時になると、エントランスと病棟をさえぎる防火壁のような扉が閉まる。あれではまるで収容所だ。戻りたくない。まだ、ここのほうがましだ。
「有田さん、どこに行ったんだい?」
 明日香が老婦人の行き先を知っているとは思えなかった。でも、訊いてみた。
「どっか」
 予想された返事だ。ある意味彼女は期待を裏切らないのかもしれない。
「知らないの?」
「知りたくもないもの」
「芹沢さんは知っているのかな」
「さあ、わたしの知ったことじゃないわ」
 明日香はまだ爪をいじっていた。毎日シャワーを浴びている。垢がたまるはずもない。入所者のなかには、入浴を嫌悪しているのかと思うほど臭う人間もいる。稲村や河東が放っているのが信じられない。
「ひとつ訊いてもいいかな」
「どうぞ」
 いじっているうちに、右の人差し指の爪の先が欠けた。栄養が偏っているのだろうか。知らないわ、あの子たちが育てた野菜なんて食べたくない。
「君は、どうして鳴海さんには好意的なんだ?」
 指の動きが止まる。瞬きも止まる。呼吸も、一瞬ではあるが止まった。
「どういう意味?」
「見てて思ったんだ。さっきもね。鳴海さんがああなってしまって、君があとを追って下りてきた。君のあんな優しい声ははじめて聞いたよ。いまとは別人みたいだ」
「なにが……」
「鳴海さんを見ていれば、誰でも優しくなれるのかな。僕も不思議だよ。あのひとの顔を見ていると、なんだか崖っぷちに立っているような気がしてくる」
「鳴海さんのことが好きなの? 調査員さん」
「まさか、そんな意味じゃない。君はどうなんだ」
「ただ、わたしは、あのひとを放っておけないような、そんな気がするだけよ。あのひと、目を離した隙に、消えてなくなりそうだから」
「なるほど。わかった」
「わかってないわ、たぶん」
「たぶんね。……今度、君も連れて有田さんのお見舞いに行こうか」
「冗談はよして。外になんか出たくないわ」
「鳴海さんもいっしょに連れて行くさ。それならいいだろう」
「やめて」
 口調とは裏腹に、明日香は嘲笑。何を笑ったのか、怜にはわからない。
「いいかげん、もう帰ったら?」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介