夏の扉
「僕はもともとここの人間じゃないからな」
「関係ないわ。話の腰を折らないで。嫌われるわ、そういう性格」
じろりとにらんだ明日香の顔は、けれど一瞬疑いたくなるほどあどけなく見えた。
「それは失礼」
「いいんだけど。でね、きょうの朝、鳴海さんが出て行った。あなたに連れられて。あなたのあのけたたましい車に乗せられてね。わたしは、そこの窓から見送ってた」
明日香は、首だけを階段室の横の窓に向け、顎をしゃくった。
「気がついたらわたし、手をふってた。『さよなら』って。ここから出て行く人は、あなたが思っているほどに少なくはないのよ」
朝、助手席でじっと<施設>を向いていた鳴海の姿がよみがえる。鳴海は明日香の見送りに気づいていたのか。
「わたしね、鳴海さんはもう戻ってこないような気がしてた。あなたに連れられて、もう帰ってこないような気がした。そう思うと、わたし、ものすごく腹が立ったわ」
「……どうして」
「鳴海さんは、簡単にここを出て行った。わたしは出て行きたくても出ていけない。出て行こうとも思わない。なのに、鳴海さんは簡単に出て行けた。卑怯だって思った。だからもう、二度と会わないかもしれない。そう思ったから、手を振ったのよ。『さよなら』って」
「でも、帰ってきたじゃないか」
「帰ってきたわね。不思議な気分だった。きっと有田さんがあんなことにならなければ、わたしは帰ってきた鳴海さんを嫌いになっていたと思う」
「どうして」
さっきからそればかりだ。怜は煙草を喫いたい気分だった。明日香はつづける。
「とりあえず嫌ってみるからよ、わたしは。初対面の人間をね」
「初対面?」
「だってそうでしょ、ここを出て行ったんだもの、わたしが知っている鳴海さんは。わたしが知ってる鳴海さんは、どこの誰かもわからない<機構>の人間に連れられて、<施設>を出て行ったのよ。で、夕方、また<機構>の人間に連れられてあらわれたのは、心の病気を抱えたどこかの女の子。鳴海さんじゃないわ。別人。わかる?」
「わかりづらいな。まあ、なんとなく」
「とりあえず嫌ってみようと思ってた。なのに、真琴が真っ先に鳴海さんを見つけた。真琴は、階段を足音も立てずに上ってきた鳴海さんに気がついた。で、有田さんがここを出て行ったことを、話しちゃった」
「鳴海さんが訊いたんじゃなかったのか」
「どうして? あのひと、わたし以上に他人には無関心よ。そんな人が、入所者が一日どうしてたか、訊くと思う? 『有田さん、きょうも元気にしてた?』なんて、河東先生だってそんなことは言わない。真琴が全部しゃべっちゃったのよ。そしたら、鳴海さんはおかしくなっちゃった。わたしがよく知ってる鳴海さんだった。嫌う必要がなくなっちゃった」
帰ってきた鳴海。駆け寄っていく真琴。少し離れて冷たい目をした明日香。怜にはそのときの情景が見える。たった十数分前の光景が。
「どうしてわたしが、とりあえず嫌ってみるか、わかる?」
「さあ」
「裏切られたくないからよ。好きになって、信頼して、そして裏切られるのが嫌なのよ。鳴海さんが他人を寄せ付けないのはまたぜんぜんべつな理由らしいけど。わたしはそういう理由」
「……そう」
「そうよ」
「じゃあ、僕のことも嫌いなんだね」
「嫌いよ。大っ嫌いよ。<機構>の人間なんて」
「そうか。だったら、どうして僕をつかまえてそんな話をしているんだい?」
「話す相手がいないからよ。べつにあなたでなくてもいい。そこのファイカスツリーでもいいのよ。でもそんなことをしてたら、ここを追い出されちゃうもの。狂っちゃったって思われる。昔いた病院に戻されちゃう。それはごめんよ。だから、仕方なくあなたに向かってしゃべってるのよ、わたしは。わかる?」
「わかるよ」
「それならいいわ」
レモネードのグラスは、冷たさを失って、すっかりただのガラスに戻ってしまっていた。
「でも、どうしてそんな話を?」
怜が訊く。煙草を喫いたい。
「それは……ね」
明日香は目を伏せた。遠くからオルガンが聞こえる。穏やかで、悲しげな、そんな旋律。
「鳴海さんがうらやましかったのかも知れない」
「うらやましい?」
およそ明日香には似つかわしくないセリフだ。怜は抱いた感想を言おうとしたが、明日香の伏せた目に色を見て、やめた。鳴海の瞳を思い出す。夏の海のようだった、紺色の目だ。いま明日香の鳶色の目も、色を宿していた。ガラス球には見えない。
「他人のことで、泣けるんだもの。ちょっとちがうかもしれないけどね、鳴海さんの場合。でも、間違いなく、あのひとは有田さんのことを思って泣いてた。それが、わたしはうらやましい」
「君も、泣けばよかったじゃないか」
「どうやってよ。悲しくもないのに、どうやって泣くのよ。わたしはさっきも言ったけれど、有田さんが倒れたって聞いても、なんとも思わなかった。悲しいとも思わなかった。そもそも、悲しいってどういうことなの? わたしは涙なんか出なかった」
そういう明日香は、泣き笑いのような顔になっていた。君には表情があるんだよ、鏡を見てみるといいよ。階段の下で鳴海を抱きとめていた明日香、その表情を、彼女自身は知らない。
「君は、鏡を持っているかい?」
たまらず、怜は訊いてしまった。
「鏡?」
「そう。自分の顔を見る、鏡だよ」
「洗面所にあるわ」
「自分では持っていないのかい?」
「持ってないわ。そんなものどうするの」
「自分の顔を見るためさ」
「わたしには必要ないわ。あなたは持ってるの?」
怜は瞬きの間、自室の間取りをたどった。引き出しの中、ナイトテーブルの上、ベッドのまわりにもデスクのまわりにも、鏡などない。洗面所だ。
「持ってないよ」
「じゃあ、なんで鏡の話なんかしたのよ」
目を細め、首をかしげ、いつもの明日香が戻ってきていた。不安定だ。風の強い空では、雲の形はころころ変わる。それに似ている。いっときも安定しない。それが人間なのかもしれないが、いまの明日香は激しすぎる。雲の形がくるくる変わる午後は、そのうち雷雲が立ちこめ嵐になる。
「君は、自分の顔を見たことがあるんだろうかって思ったのさ」
怜が言うと、明日香は半身を起こし、そして目を見開いた。突然異国の言葉で話しかけられ、言葉の意味をつかみかね、反芻しているような表情だ。
「自分の顔を? バカじゃないの?」
もとどおり椅子の背にもたれて、小柄な彼女は笑った。談話室には怜と明日香以外に誰もいない。読書青年もいつのまにかいなくなっていた。みんな自分の部屋にこもっている。出てこない。扉は開かない。開けられない。扉のない談話室で、ふたりはなにを話しているのだろうか。
「あるに決まっているじゃない。自分の顔を見たことない人間なんて、いるの? いるんなら教えてよ」
怜はだまって人差し指を明日香に向けた。
「わたし? わたしが、自分の顔を知らないっていうの?」
「さっき、君は涙が出ないって言っていた。悲しいってどういうことかわからないって言っていたよね。そう言っていたときの君の顔を、鏡で見せたかった」
「……わたしをバカにしてるの?」
「ちがうよ。さっきの君は、ちょっとね、悲しそうな顔をしてたから」



