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夏の扉

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「きょうの午後かな。いつまでたっても有田さんが部屋から出てこなかった。わたしはほとんどあのひととはしゃべったことがないけれど、真琴は気にしてた。わたしも気になった。いつも談話室で食事をしているはずなのに、お昼にもこなかったわ。最初、有田さんの部屋を河東先生が出入りしてた。わかるでしょう、あの、髭面の」
「わかる」
「そのうち、稲村先生も上がってきた。わたしも真琴もここにいたから、先生たちふたり、妙にあせっているのがわかったわ。稲村先生なんか、階段を駆け上がってきた。あのひとがよ、駆け上がってきたの。血相を変えて。だからわたし、気づいたわ。なにかあったんだって。有田さんになにかがあったんだって。でもわたしは気づかないふりをした。真琴と向かい合って、カーテンの話をずっとしてた」
「カーテンの話?」
「わたしたち、家を建ててるのよ。二人だけの家を」
「<施設>を出るの?」
 怜が驚きを隠さず急きこんだように言うと、明日香はやんわりと笑った。笑って否定した。
「ちがうわ。空想の話。もうここまで行っちゃったら、妄想ね。真琴とふたりで、二人の頭の中に家を建ててるのよ。微笑ましいでしょう。真琴が稲村先生にこの話をしたら、止められたって。止めても無駄なのにね。たとえば『誘拐を考えた』だけじゃ、罪にはならないのに」
 車の中で鳴海と交わした会話を嫌でも思い出す。家の話だ。明日香や真琴にとっても、ここは「家」ではないのだろうか。たぶんちがうのだ。だから、ふたりで住むことのできない家を建てているにちがいない。
「で、稲村先生が上がってきたかと思ったら、ほら、白石さんも知ってる、あの子どもたちまで上がってきたのね。普段はめったに二階になんて来ないのに。屋上へ行くときだって、この階段は通らないのに。で、子どもたちはまっすぐ、有田さんの部屋に入っていったわ。そうそう、わたしね、有田さんの部屋がどこにあるのか知らなかった。笑っちゃうでしょう。笑ってよ。わたしが知ってる部屋ってね、自分の部屋に真琴の部屋、鳴海さんの部屋だけよ。ほかの部屋に誰が入っているかなんて、ぜんぜん知らない。きっと白石さんが入所しても、あなたがどこの部屋に入ったかも、わたしは知らなかったと思うわ。ここはそういうところ。なのに、あの子たちは有田さんの部屋を知っていたの。いったいいつから知ってたのか、こっちはぜんぜんわかんないけど。で、いよいよ子どもたちまであらわれて、わたしはやっと知らないふりをやめたの。真琴もそわそわしはじめてた」
 誰かがカーテンを引いた。明日香と真琴の家のカーテンではない、談話室のカーテンを。西日が差し込み、まぶしい。だからカーテンが引かれたらしい。窓辺にハードカバーの本を持った青年が立っていた。
「カウンセリングのときじゃなきゃ口も利きたくなかったけど、わたし、河東先生をつかまえて訊いてみたの。『有田さん、どうかしたんですか?』ってね。カウンセラーをやってるわりに、河東先生も落ち着きがなくて、そわそわしてた。で、なかなか答えてくれなかったんだけど、そこに稲村先生が来てね、こう言ったの。『有田さんとは、お別れだ』って」
 怜は瞬きもできなかった。周囲の空気が瞬時に真空へ反転したような、信じられないほどの息苦しさを感じた。
「どういうこと?」
 ようやく口を飛び出したセリフは、それ以上の意味をもたなかった。
「そのままの意味よ。有田さん、もうこの<施設>にはいないわ」
「……」
「くわしいことは知らないけど、もっとまともな病院に移るんだって、白石さんたちが帰ってくるちょっと前、出て行ったわ。白い車が迎えに来て」
「……有田さん、転院したのか」
「そうよ。どうなったと思ったの?」
「てっきり、……」
 怜はそれ以上なにも言わなかった。縁起が悪い。ひどい早とちりだ。けれど、明日香や鳴海の様子を見れば、誰だってそう思うにちがいない。よかった。怜は胸をなでおろしていた。どうしてだろう、数回口を利いただけの老婦人を、自分は気にかけていた。
「……悪かったのかな、どこか。身体の」
「有田さんが? さあ。でも、さっきここを出て行くときは、一度も姿を見なかったわ。リフトを使ったのね、きっと。起きて歩けなかったって聞いた。そうよ、意識がなかったんだから」
「……そう。君は、その話を鳴海さんにしたのかい?」
「わたしが? ちがうわ。真琴よ、あの子が言ったの。真琴によれば、帰ってきたばかりの鳴海さんは、有田さんを探していたんだってさ。そう見えただけなんだろうけど。真琴の悪い病気ね。で、くわしい話を聞いてしまった鳴海さんは、ああなっちゃった」
 天井からエアコンの稼動音が聞こえた。
 ブン。
 ここが巨大な冷蔵庫の中のような気がした。穏やかな冷気が肌を刺す。
「みんな、病気なのよ。すっかり、忘れてた」
 怜は目の前のグラスにまだ残っているレモネードをただながめていた。うっすらと結露した表面を。天井で蛍光灯が点灯した。時刻は、いまいったい何時だろう。<施設>についてからとたんに時間の流れが遅くなった。怜は手持ちぶさただった。言うべき言葉が見つからない。
「有田さん、発電所の事故の後遺症なんだって」
 明日香は、まるで夕食のメニューを読み上げるように、言った。
「発電所の?」
「稲村先生が言ってたわ。それで、ずっと身体が弱かったみたい」
「<施設>にいて、どうして事故なんか」
「知らないわ」
 言ってから、明日香は上目遣いに怜を見た。白目と黒目が妙にくっきりとわかれた、ここの人たち特有の目。こちらを向いているのに、じつはなにも見えていないような、一歩常軌を逸した視線に感じられ、怜は目をそらした。
「真琴の真似」
 平淡に言い、そして怜のグラスを取りあげた。
「もらうわね」
「どうぞ」
 そうして、怜が口をつけたのとは反対側から、彼女はレモネードをひとくち飲んだ。
「ずいぶん酸っぱいのね、これ」
「おいしいよ」
「どうだか」
「おいしくないかい?」
「まずくはないわ」
「素直じゃないね、君は」
「とりあえず、嫌ってみるのよ、わたしは」
「鳴海さんは」
「嫌いじゃないわ」
「ちがうよ、彼女、大丈夫なのか?」
 怜の言葉を待たず、明日香はぐっとレモネードを空けてしまった。
「酸っぱい」
 グラスを放り投げるようにしてテーブルに戻し、嘆息。
「わたし、好きな人なんていない」
 嘆息にまぎれて、そんな言葉が怜の耳に届いた。
「どうしたって?」
「わたしはね、たとえば誰かが具合が悪くなったとしても、きっと心配なんかしない。気にかけたりもしない。白石さんの病気が悪くなろうが、よくなろうが、わたしには関係ない。だから、有田さんが倒れたって聞いても、本当のことを言うと、なんとも思わなかった。『それがどうしたの、わたしには関係ないわ』って」
「冷たいんだな」
「聞いて。まだわたしの話は終わってない」
 怜は空になったグラスに触れた。まだ冷たかった。
「『わたしには関係ない』」
 明日香は繰り返した。
「たとえ、ここの人たちがみんないなくなっても、わたしは平気だと思ってた。真琴がいなくなっても、鳴海さんがいなくなってもね。もちろん、あなたが来なくなっても」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介