小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

夏の扉

INDEX|93ページ/125ページ|

次のページ前のページ
 

 明日香は鳴海を立たせて、抱えるようにして階段を上った。階段に明かりはなかったが、斜陽が壁を階段を、天井をのっぺりと薄色に塗りこめていた。怜は、そのまま帰ろうかと逡巡したが、二人にそっとついていった。
 プロペラが回りだしている。風切り音が耳についた。また、風が吹きはじめていた。きょうはずっと、穏やかな一日だったのに。
 鳴海の嗚咽が待合室の奥まで届いているようだった。
 どうして泣いているんだろう。
 怜は空腹を感じていた。


   四七、稜線

 談話室に上がった。灯りのない部屋は茜色の斜陽に切り取られていた。明日香に抱かれるようにして、鳴海は椅子に腰をおろした。明日香にいつものシニカルさが見られない。母親のような、ちがう、まるで姉のようなふるまいだ。けれど確か明日香は鳴海よりも年下だ。しかしいま、鳴海は熱にうなされベッドで目覚めた子どものように、ひどく何かにおびえ、泣いていた。怜は涙をぬぐうこともできない鳴海を見、彼女とついさきほどまでいっしょにいたことが信じられなかった。豹変だった。
 鳴海はいったん明日香に連れられて自室に帰った。談話室に戻ってきた明日香は、焦燥を隠そうともしなかった。怜の向かいに座ってもにこりともしなかった。いや、それはいつものことか。しかしいまの明日香の瞳のふちには、色濃い疲れが見えていた。
「きょうは、たいへんな一日だったわね」
 まるで他人事のようにつぶやいた明日香は、不思議とふだんよりずっとまともに見えた。怜をまっすぐに見ているからだ。
「僕は、べつに」
 いつもの明日香をまねて、はぐらかしてみた。
「こっちの話よ」
 真琴がいない。
「芹沢さんは?」
「真琴なら、音楽室じゃないかな」
「下にいたけれど、なにも聞こえなかったよ」
「じゃあ、子どもたちのところね、きっと。さもなきゃ温室だわ」
「屋上の?」
「わたしたちの中で、あの子は唯一子どもたちに受け入れられてるみたいだから。知ってるでしょう、子どもたち。温室の管理人」
 明日香は肩をすくめた。そのしぐさが自然だ。学生時代の彼女はいつもこんな風だったのだろうか。
「受け入れられてるって? 君の言いかただと、子どもたちに気に入られないと、温室には入れないみたいだ」
「そうよ」
「僕は入ったよ」
「入ろうって気を起こそうとする時点で、あなたはやっぱりここの人間じゃないのね」
「どういうこと?」
「子どもたち以外は、ここに温室があるってこと、みんな忘れてる。興味がないのよ、自分以外のことにはね。だから、子どもたちに誘われでもしないかぎり、温室に行ってみようなんて酔狂は、いないのよ」
「僕は変人ってこと」
「ここではね。あなたの世界に帰れば、まともなんでしょうよ」
 明日香と一対一で話をするなんて。
「まともじゃないから、ここに来てるんだよ。いつかも言ったじゃないか」
「自分で言っていれば世話がないわね」
「……強烈だな」
 疲労がそうさせるのか、口調がきつい。そしてはっきりわかるほどに、明日香の顔色が悪い。
「具合でも悪いの?」
「誰が」
「君が」
「わたしが? なんで」
「顔色が悪い」
「どう?」
「青白いよ。鳴海さんみたいに」
 怜がそう言うと、明日香は一瞬あっけにとられたように黙った。そして吹き出した。
「鳴海さんね。顔色悪いもんね、いつも。でもああいうのを『色白』っていうんじゃないの? それに、日焼けした顔のほうがよほど不健康よ。そうじゃないのかな? 環境調査員さん」
「紫外線のことを言っているんだったら、そのとおりだよ」
「あなただってずいぶんと色白じゃない」
「職場環境がそうさせたんだよ。日焼けは罪なんだ。快晴の日は防護服を着ていく」
「本当に?」
「嘘だよ。半分本当だけど」
「どこまでが半分なのよ」
「防護服を着て仕事をするってことは本当だよ。快晴の日に、という部分が嘘さ。せいぜい長袖を着るくらいだね。夏はひどく暑いんだ、あれ」
「知らないわ」
「だろうね」
「ちがう。興味がないってことよ」
「興味がない、か」
 なぜこんな半分けんか腰の会話をしなければならないのだろう。明日香の青白い唇は、低体温症寸前の水難者を思わせた。
「レモネード、飲む?」
「レモネード?」
「冷蔵庫に入ってるのよ。給湯室の。飲みたいのなら、持ってくるわ」
「いいのかい?」
「いいのよ。真琴も飲んでたし。誰かが飲み干したって、べつの誰かが補充するわ。ここはそういうところだから」
 言うが早いか、明日香はもう席を立った。せわしない。何かをしていないと落ち着かない、そんな様子だった。鳴海の「発作」、明日香の言動。老婦人に何かがあった、そのことは痛感した。しかも、重篤な何かだ。それに思い至って、怜は少し気分が悪くなった。空腹のせいか、胃が痛い。
 明日香が行く廊下は、夕日を受け、リノリウムの床が水面のように波立って見えた。数時間前に鳴海と立っていた海岸を思い出す。あれは本当にきょうのできごとだったのだろうか。ひまわりを手折ってくれた男は、いまどこにいるだろうか。無事、どこかの町にたどりついたのだろうか。彼がくれたひまわりは、いまどこにあるのだろうか。鳴海に訊いてみたかったが、それは無理だ。彼女が手放したもう一輪はどうだろう。もう波間を漂っているのだろうか。
「どうぞ」
 明日香が持ってきたレモネードは、えらく黄色が濃かった。
「ありがとう」
「レモンはね、ここの温室で採れたのよ」
「知ってる」
 怜はうっすらと露をまとったグラスを取り、ひとくち飲んだ。マーケットで見かける飲料とはずいぶんちがう。酸味が強い。夏向けの味だと思った。
「おいしい?」
「おいしいよ」
 明日香は無言でうなづいたが、かといって自分のグラスを取りに行こうとはしなかった。
「飲まないの、西さんは」
「いらないわ」
 グラスをテーブルに置いて、正面から明日香の視線を受け止める。なにか言いたそうだ。必死に言葉を探っているのが手に取るようにわかった。口数の多さは、彼女が選び損ねた言葉がこぼれ落ちているからだ。本当に投げかけたいのは、いったいどれだ?
「きょうは、楽しかった?」
 明日香は怜から視線をはずした。本命ではない。
「暑かったよ、さすがにね」
「海は見られた?」
「そのために出かけたんだ。見られたよ。久しぶりだった。いや、まともに海を見たのなんか、ひょっとしたらはじめてかもしれない」
「……」
「晴れてよかったよ」
 視線をはずし、明日香はテーブルについた露を指で伸ばし、なにかを描いていた。円、螺旋、曲線。こういうとき、人は直線を描かない。曲線を描き、指は最初に戻る。
「鳴海さん、楽しそうにしてたのかな」
「さあ。いつもとかわらないように見えたけど」
 怜は、鳴海が厚別のあたり、原生林を抜けた国道で突然涙を流したことは、伏せた。引き金に指をかけたのは自分かも知れない。
「白石さん」
 怜が顔を上げると、はじめて見る明日香の表情があった。悲しげに眉をゆがめ、瞬きすらしない瞳が、やはり澄んでいた。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介