夏の扉
意味はわかる。しかし双方の世界を行き来して、怜は合わせ鏡の迷路に放り込まれたかのような、微妙な居心地の悪さを隠すことができなかった。どちらの鏡も自分の姿を映している。映る自分がさらに鏡に反射して、果てしない。
豊平川に架かる橋で、鳴海は男がよこしたひまわりを一輪、流れに投じてしまった。男は鳴海と怜、それぞれに一輪ずつのつもりで手折ってくれたにちがいない。けれど鳴海はその片割れを捨ててしまった。捨てられたのははたして自分だろうか、それとも鳴海自身だろうか。
静かだった。
受付の女の子がキーをタイプする音のほかは、何も聞こえなかった。いつも感じることだが、二階の気配が待合室にいるとまったくない。自分がたった一人の外来で、ほかはすべて<施設>に住む入所者たちだけだというのが信じられない。最初に来たときも思った。ここはまるで病院とは思えない。
エアコンが稼動していないようだが、待合室正面の中庭に通じる窓が全開になっていた。けれど風がない。だから煙草の煙が一直線に立ち上る。鳥の声も風の音も聞こえない。あまりに静かすぎる午後だった。怜はそれが心に引っかかった。いつもと、ちがう気がする。静かすぎるのだ。廊下の角を曲がれば、医師たち二人の診察室がある。なのに物音ひとつ聞こえない。誰もいないのだろうか。受付から事務室をのぞいてみたい衝動にふと駆られたが、怜はここの事務員を受付の子ひとりしか知らない。薬を受け取るとき、彼女の背後に人の気配を感じたことがない。
暑かった。
長椅子と背の間に、じっとりと汗が染みているのがわかった。せめて風があれば。
鳴海が降りてくる様子もない。もともと怜は部外者だ。彼女がなかなか上がってこない怜を気にかけて降りてくるとも思えなかった。今ごろ明日香につかまって、あれこれ詰問されているのかもしれない。怜はゆっくり煙草を一本灰にして、それでもしばらく長椅子に腰かけていた。
一日いっぱいをかけた外出ではなかった。朝ここを出て、帰ってきたのは午後の五時前だ。いくら夏至を過ぎたとはいえ、まだ五時をまわったばかりで日は高い。たしかに日は傾きはじめてはいるけれど、斜光が待合室の奥深くまで届くほどではない。なのに怜は、もう一日が終わったような気分でいた。もう帰ろう。今度は、僕が帰る番だ。水を一杯もらったら、鳴海に一声かけて帰ろう。明日香がいつもの斜にかまえた不敵な笑みを浮かべて何か言ってくるかもしれない。あの老婦人は、談話室で一日の終わりをどう過ごしているのだろうか。彼女もまた、鏡と向かい合っているのだろうか。しばらく老婦人と会話をしていない。
ふと、怜の耳に誰かの足音が届く。気のせいか、空耳だろうか。駆けていくような、あわただしい足音だった。それは一瞬で、だから怜は気のせいかと長椅子の背に頬杖をついた。なかなか二階に上がるきっかけがつかめない。なぜかきょうはひどく自分の部外者意識が加速する。
まただ。足音だ。それは誰かが誰かを追っているような、まさに足が地についていないような、いくつもの足音だった。
怜は身体をひねって振り向いた。階段を誰かが駆け下りてくる。誰だろう。
「待って、どこ行くのよ」
明日香だ。明日香の声だ。追っているのは、明日香だ。すると、追われているは、駆けているのは誰だろう。
「鳴海さん!」
つんのめるようにして階段を駆け下りてきたのは、鳴海だった。明日香の声が追いかけてくる。すらりとした鳴海の長身が、立ち止まり怜を向いた。肩が上下している。
「鳴海さん!」
明日香の声が意外によく通ることを、怜はいまはじめて知った。一階中に凛とした明日香の声が響いた。
明日香が降りてくる。鳴海は頭を抱えていた。はじけそうになる頭蓋を必死で押さえているような、そんなしぐさだった。追いついた明日香が鳴海の両肩を抱きとめた。
こんな光景、知ってる。
怜の口腔に苦い潮の匂いが広がった。頬を打つ雨のつぶてと、幾たびも瞬く稲妻と。
鳴海は明らかに取り乱し我を忘れているようだった。怜は彼女の豹変ぶりに、椅子から身体を浮かすことができなかった。なにが起こったのか、まるでわからない。
頭を抱えた鳴海はひきつけを起こした子どものような、か細く病的な悲鳴を漏らしていた。立て付けの悪い扉を強引に開くような音。
「……白石さん」
明日香はそこでようやく怜に気づいて名前を呼んだ。駄々をこねてストライキを起こしてしまった子どもにおろおろする母親のような、困惑を隠そうともしない視線を怜に向けて。そんな明日香を怜ははじめて見る。
「鳴海さん」
怜はまだ座ったまま、振り向いた姿勢のまま、鳴海を呼んだ。けれど鳴海の瞳は空を泳いでいて、怜に気づかない。怜のことをすっかり忘れてしまったかのような、怜などまったく視界に入っていないかのような、おびえた瞳からは、涙があふれていた。離れているのに、怜には見えた。
明日香は鳴海の肩をつかんだまま、視線は怜を捉えて放さなかった。
「どうしたの?」
怜はやや青ざめた明日香を向き、立ち上がって訊いた。
「白石さん」
明日香はその場で小刻みに足踏みをしていた。明日香もまた我を忘れている、そんな雰囲気だった。なにがあったのだろう。場違いながら、怜は空腹だった。
鳴海の瞳が震えていた。焦点が定まらず、どこを見ているのかわからない。いや、いまの彼女には何も見えていない。何かから逃げようとしている目だ。ひたすら、逃げ道を探している。それを必死にとどめようとしている明日香ですら、しだいに鳴海に連れられて、どこか別な場所へ逃げ込もうとしている。怜にはそう見えた。
「なにがあったの?」
鳴海はもはや怜の存在に気づいていない。だから怜は明日香に訊いた。
「……有田さんが」
しぼり出すような声で明日香が答える。有田さん? 老婦人か。老婦人が、どうしたのだ?
「有田さんが、急に具合が悪くなって、それで……。そのことを鳴海さんに伝えたら、もういきなり」
老婦人が、どうしたって?
「有田さんの具合が? どこか悪かったの?」
<施設>に入所している人をつかまえて「どこか悪かったの?」とはおかしな質問だ。言ってから怜は思った。
「わたしは知らなかった」
「なにが……」
「お昼を過ぎても有田さんが談話室に出てこなくて、それで、河東先生が部屋に行ってみたら、意識がなかったって」
明日香は急激に声を落とした。
「意識がなかった?」
怜の言葉に反応したかのように、鳴海はその場にへたりこんでしまった。
「鳴海さん」
明日香と怜が同時に呼びかける。
「鳴海さん、部屋に戻ろうよ。……疲れたんだよ、慣れない外出で」
およそ彼女とは思えない、慈悲にあふれた口調で、明日香は鳴海を抱きしめた。
「明日香ちゃん……?」
鳴海のつぶやき。怜は突っ立ったまま。
「戻ろうよ。お腹がすいてるんじゃない? 真琴も心配してた」
そういえば、朝ここを出てから何も食べていない。怜も鳴海も食欲を表に出して主張するタイプではなかったから、食事を怠った。



