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夏の扉

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 豊平川を渡る。旧市街を南北に流れる川だ。かつて豊平川は本流である石狩川と合流してから、海に注ぎ込んでいた。けれど海水位が上昇をつづけるいま、豊平川は海に河口を持つ川になってしまった。もっとも、河口といっても汽水湖のようなあいまいな湿地帯が広がっているだけなので、そこを海と呼んではたしていいのかどうかはわからない。衛星写真で見ればたしかに河口から先にはなにもない。やはりもうそこは海なのだ。
 鳴海は豊平川に架かる橋の上で車を停めて欲しいと言った。往来のほとんど失せた橋の上で、怜はパーキング・ブレーキのレバーを引いた。錆びた欄干と、傾きかけた街路灯、そして両岸に並ぶ高層住宅。旧市街の中心部で、半世紀前までならここでこうして車を停めることなどできなかったにちがいない。けれどいまはちがう。時間がひどく間のびして、橋を渡るひとたちはみな一様に川面をのぞきこんだり、流れの先に目をこらしたりと、川を意識しているようだった。橋の下には川が流れているのだと、ようやく気づいたかのように。
「なにをするんだい?」
 白石を出てからしばらく、鳴海は何か考えこんだように言葉を発しなかった。車が橋にさしかかり、前方の空がふっと広くなったとき、鳴海は言った。
(川?)
 怜は応えた。
(豊平川だよ。知ってるだろう?)
 鳴海はかすかにうなづいただけだったが、車が橋桁のつなぎ目の一つ目を過ぎたあたりで、
(停めて)
 そう言った。
 怜は鳴海に応えず、だまって停めた。
「降りるの?」
 鳴海はドアノブに手をかけた。こくりと首を縦にふって、彼女は橋の上に立った。ひまわりを一輪、手に。怜もシートベルトをはずし、車を降りた。道端には砂がたまっていた。
 二人、並んで立った。上流を望む。さえぎるものがなにもない橋の上で、いくら日が傾きかけているといっても、まだ暑い。じっとりと首筋に汗が浮かんだ。
 鳴海は一輪持ったひまわりを、欄干から突きだした。
「どうするんだい」
 怜は訊いたが、彼女がいったいなにをしようとしているのか、もうわかっていた。夏の思い出を一片、流そうとしているのだ、彼女は。
 怜の視線を鳴海は無表情に受けとめた。澄んだ瞳だとあらためて思った。つくりものめいていて、色がない。瞳をのぞいても、怜に鳴海の表情が読めない。けれど、いまはほんの少しの憂いがその瞳に混ざっていた。陽射しを浴びた頬はかすかに上気していた。彼女がほんの少し前に見ていた夢のなごりが、そこにあった。
「流すのかい?」
 鳴海は怜の問いには答えず、目を閉じた。そして次の瞬間、開いた彼女の瞳に海を見た気がした。深く、紺色に近い彼女の瞳は、まるで夏空の下の海のようだった。その海が波立ち、一滴の海水がこぼれ落ちた。
 ひまわり。
 一輪のひまわりが、鳴海の手をはなれる。怜は落ちていくひまわりを、見送った。彼女の手をはなれたひまわりは、もう取り戻すことはできなかった。思い出が一片、取り戻せない流れの向こうへ行ってしまう。怜はだまって見送った。鳴海もだまって見送った。思い出を解放した彼女自身、まだ指に残る茎の感触もそのままに、流れに乗ったひまわりを見送った。橋をくぐり、ひまわりは消えた。とたんに怜の耳に川の流れがよみがえる。流れは澄んでいた。怜が知る水は、みな濁りよどんでいた。こんな水もあったのか。
「行きましょう」
 鳴海の声は流れにまぎれ、ようやく怜の耳に届いたころには、彼女の白い横顔は伏せられていて、身をひるがえし、車に乗り込んだ鳴海の背中は少女のように頼りなかった。いや、彼女はまだ実際に少女だ。怜とさほど歳も違わないはずなのに、鳴海はあまりに頼りなく、華奢だった。
 なぜ彼女はひまわりを流したのか、それも一輪残して、それはなぜか。怜は訊かなかった。車をスタートさせ、旧市街を走り抜け、砂埃が舞う港湾道路に入っても、答えを求めなかった。助手席で彼女は、残った一輪のひまわりを、そっと抱いていた。
 LRTとすれ違い、ようやく電停のプラットホームが見えてくる。怜が歩く防風林沿いの道へ左折して、ポンプ場を右折する。風車が回っていた。白い壁、<施設>だ。ひまわりを抱いたまま、鳴海は顔を上げた。エントランス前に車を寄せて、怜はエンジンを止めた。鳴海は二階の窓に明日香を探していた。今朝のように、怜の車の排気音を聞きつけて、彼女が出迎えてくれているような気がしたのだ。けれど、窓に人影は現れず、エントランスにも誰も出てこなかった。もとより出迎えは期待していなかったが、鳴海は明日香の顔を見たかった。一言彼女に言いたかった。帰ってきたよ、と。
「ありがとう」
 ひまわりを揺らして、鳴海は言った。怜に向かって。
「こちらこそ」
 怜は軽く頭を下げた。
「休んでいきますか?」
「水を飲みたい」
 怜が言うと、鳴海はそっと微笑んで、車を降りた。怜も、降りた。
 エントランスは冷え冷えとしていた。はじめてここを訪れたときの記憶が、なぜか浮かんだ。冷めた空間、止まった時間、ぽつりと置かれた灰皿。
「上がらないんですか?」
 階段に足をのせた鳴海が、ついてこない怜をふりむき、呼んだ。
「煙草を一本、喫ってから行くよ。いいかな」
「どうぞ。わたしは、談話室にいます」
 怜は片手を小さく挙げて応え、待合室のベンチに、いつもの席に腰を下ろして煙草に火を点けた。
 待合室は西を向いているから、正面に太陽がまぶしい。室内をくっきり陰と陽に切り取る光の帯の中、怜の指先から濃密な螺旋階段が立ちのぼる。運転中は喫わないので、あの奇妙な男と別れたひまわりの丘からこちら、久しぶりの煙草だった。座り心地のけっしていいとはいえない長椅子に腰かけ、背後からはあの雨だれのようなタイプの音が聞こえる。すっかり顔なじみになってしまった受けつけの女の子は、けれど薬を処方してもらうときに合わす視線は、初心患者に対するそれとどうちがうのか、あの嵐の日のほかに、怜は彼女の口から「お大事に」以外のセリフを聞いたことがなかった。そしていつでも彼女は受付にいた。席をはずしているところを見たことがない。もちろんここに泊まった夜、待合室に鳴海の姿を探したとき、受付はカーテンを閉めて眠りについていた。あの女の子もまた、<施設>の住人なのだ。そして、鳴海や明日香や真琴と同じく、ここに居場所を見出してしまったひとりなのだ。きっとそうだ。
 居場所。
 怜は<施設>で自分はいつまでも客人なのだと、煙草を深く吸い込みながら感じていた。少なくともここは自分の場所ではない。最初のころ、時計の針が止まったような<施設>の雰囲気に、怜は安息を感じていた。けれどここの安息はあまりにも異質だった。ここにいると、十七号棟の自室がはてしなく遠くに感じる。TVをつければ流れてくる<機構>のアジテーションも、<施設>で思い出すとどこか現実味を帯びてこない。それは<施設>にTVがないからではない。間違いなくここは、世間と、怜の知る世界と乖離している。おたがいに拒絶しあっている。
 怜は指にはさんだ煙草からのぼる煙をながめ、あの老婦人のいつかの言葉を反芻していた。
 ここは、鏡だ。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介