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夏の扉

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 怜はペダルをさらに深く踏み込んだ。けれど加速していることを鳴海に感じさせないくらい優しく。速度計の針が時計の秒針のスピードで加速する。怜は正面、時折ミラーを一瞥して、視界の端に鳴海のひまわりが揺れる。ささやかな「休日」は傾きはじめた太陽を追いかけていた。怜は鳴海の応えをそれでも待っていた。このまま帰っていいのだろうか。鳴海に外を見てもらいたかった。<施設>の外をだ。怜の目には、鳴海は外の空気を欲しているように見えていた。彼女の兄の話をするとき、絵を眺めるとき、怜が開け放った窓から飛行機雲を見上げたとき、鳴海の意識は「出たがって」いるように見えた。海を見に行こうと誘ったとき、鳴海の目に光を見た。
 怜が応えを待ってるとき、鳴海は流れる家並みを目で追っていた。住む人の絶えた街だ。森にゆっくりと飲まれようとしているのは、さきほど通過した河口の街と似ている。だが決定的にちがうのは、いま鳴海が追っている街並みは、彼女の知っている風景だということだった。
 わたしの街。
 シートベルトにもたれたまま、自然に視線は自分の家を探していた。この風景、見覚えがある。あの日、父の車で家を出て、<施設>に向かった朝、鳴海はやはりシートベルトにもたれて街並みをながめていた。ぽつぽつと灯った街灯と、青く沈んで眠る街。もう帰ることもないだろうと、父の喉から時折あふれる咳を数えて鳴海は思っていた。もう、あの家に帰ることもないだろうと。
 鳴海の家は斜面に建っている。桜の木、兄の部屋から見えた塔、きしむ階段、わたしの家の匂い。それらが不意に湧き出した泉水のように、鳴海の瞼によみがえってくる。鮮やかに。
 国道沿いから彼女の家は見えない。住人が減っても、街は残る。だから住宅街の真ん中の鳴海の家はここからは見えない。けれど鳴海はともすればこぼれ落ちそうになる涙を必死でこらえながら、自宅の屋根を探していた。ああ、わたしの家はどんな色をしていただろう。母さんが待っているかも知れない。父さんは、どうしているだろう。
 これまで扉の向こうに鍵をかけて閉じ込めていたはずの記憶が、残酷なほど鮮やかによみがえってくる。彼女が自宅の扉を開けると、みんなが待っていた。
 おかえり。
 灯りが暖かい。忘れかけていた色だった。<施設>の照明は蛍光灯が多い。
 おかえり。
 みんな、いる。みんなが、待ってる。
 鳴海は目を閉じる。怜の車に揺られていることなど、もう忘れていた。
 わたし、帰ってきたんだわ。
 鼻腔の奥がつんと痛い。わたし、泣いてる? どうして? 帰ってきたのに、どうして悲しいんだろう。
 それはね、
 声が聞こえた。誰かの声が。となりの怜には絶対に聞こえない声が。
 もう誰も待っていないって、君は知っているからだよ。
 鳴海はかまわず階段を駆け上がった。追憶の中で、鳴海は自宅の匂いに包まれていた。階段を上がり、わたしの部屋はこっちだ。疲れた、もうしばらく帰っていなかったから、部屋の掃除をしなくてはならない。ずいぶん長いあいだ留守にしていた。わたし、どこに行っていたんだろう。階下から鳴海を呼ぶ声が聞こえる。母か、祖母か。ああ、みんないる。みんながいる。
 もう涙がこぼれていくのを止められなかった。自分が泣いていることも、しばし忘れることにした。身体が震えた。嗚咽が漏れた。
「鳴海さん?」
 聞きなれない誰かの声が自分を呼んだ。鳴海はそれを無視した。誰だろう。聞き覚えはあるんだけど、誰かわからない。
「大丈夫?」
 大丈夫って、なにが? いま家に着いたばかりで、なにが大丈夫なのだろう。
「鳴海さん?」
 わたしをそう呼ぶ人間は、少ない。家族はわたしを呼び捨てにする。さん付けで呼ぶのは、……誰だったろう。
「鳴海さん、どうしたの?」
 助手席で嗚咽を漏らして涙を流す鳴海に気づき、怜はあわてて車を停めた。アンチスキッドが作動する寸前だった。
「鳴海さん?」
 通る車などほとんどない国道だが、路側帯に車を寄せ、ハザードランプを点ける。車を完全に停止させて、怜は一瞬ためらったが、鳴海の肩をゆすった。
「あ……」
 ようやく鳴海が瞼を開けた。あふれる涙に濡れた瞳は、赤く充血していた。頬が上気していた。ひまわりの茎を握る指が、真冬の風に震えているようだ。
「どうしたの? 気分でも、悪いの?」
 鳴海は瞳まで震えていた。おびえているわけではなく、怜はそんな鳴海を知っていた。
 怜は放心したような鳴海の肩をゆすり続けた。震える瞳は焦点が合っていない。夢から覚めたのに、覚めたことに気づいていないかのように。だから怜は言った。
「悪い夢でも見ていたのかい」
 笑って。もし本当に悪い夢を見たのなら、笑って呼びかければそれは冗談になるかもしれない。
「白石、さん」
 よこでようやく鳴海の瞳の震えがとまった。完全に覚めた、そんな感じだ。
「やあ」
 奇妙な応対だ。ずっと同じ車内にいたはずなのに、けれどきっと鳴海はいままでの十数分間、怜の知らないどこかへ出かけていたのだ。ひさしぶり、どこまで行っていたんだい?
「埃っぽいな、窓を閉めよう」
 エンジンはかけたままだ。発電量はアイドリング状態でも潤沢だ。軽やかにスピーディに、窓は閉まる。エアコンの温度設定を少し上げた。
「ここ、どこ?」
 まっすぐに怜の目を見て、鳴海が訊いた。
「ここは……」
 怜はいったん鳴海から視線をはずし、クリップボードの地図を見た。
「白石だよ、白石」
 僕の名前だ。
「白石。……白石さんの街?」
「僕の家は<団地>だよ。偶然だよね。地名と同じ名前なんだ」
 鳴海はそっと微笑んだ。怜も微笑んだ。夢から覚めたばかりの彼女が、すんなりと現実に帰ってこられるように。君はここにいるんだよ、と。
「まだ、<施設>には着いていないのね」
「まだ、着いてないよ。まっすぐ帰るかい?」
 少し前にも訊いた質問だ。繰り返す。訊くと鳴海は目を伏せた。
「……うん」
「わかった。まっすぐ、帰ろう。きっと、みんな心配してる。僕が君を拉致して帰さない気じゃないかってね」
「みんな?」
「西さんや芹沢さん、稲村先生」
 知った名前だ。鳴海はまだ追憶と現実の境界に立っていた。だから怜が口にした名前と、鳴海が憶えている顔がなかなか一致しない。昔、こういうことがよくあった。記憶と現実がつながらない。
「君の場所へ、帰ろう」
 怜はそう言うと、姿勢を正してステアリングを握った。
「わたしの、場所」
 明日香、真琴、稲村。読書青年、有田老人、チェスの二人組、子どもたち。ようやくすべてが戻ってきた。鳴海の現実が。
 手のひらでひまわりの茎はつぶれていた。そんなに強く握ったつもりはなかったのに。
「帰ろう」
 怜は応えを待たず、車をスタートさせた。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介