夏の扉
まわる風車の風切り音が届きそうな道だった。鳴海は小さく、言った。帰ろう。
「帰る?」
このあたりの国道はさして荒れていない。<機構>の車両もここを通るからだ。ステアリングを握る指はやや弛緩していた。だから鳴海の言葉をそのまま、怜は返してしまった。
「帰ろう、もう。明日香ちゃんが待ってる」
実際、鳴海は思い出していた。朝、<施設>を出るときにふと見た二階の窓から手を振っていた、明日香の顔を。
「疲れたの?」
「ちがう。……やっぱり、わたしは外に出ちゃいけなかった」
鳴海の口調がうってかわって憂鬱そうに沈んでいた。さきほどまでとはずいぶんちがう。
「どうして」
「理由なんてない。海を見たいなんて、そんなことを言ったのがいけなかった」
車は市街地方向に向けて、夏空の下を走る。
「……君の街が近いからだよね」
怜が言うと、鳴海はひざからひまわりを落としてしまった。落としたことにも気づかないようだった。
「君の家、もう近くなんだよね」
彼女を向かなくても、鳴海の視線が怜を射ているのがはっきりと伝わった。なのに表情がわからない。
「もう、……帰りたい」
怜はガスペダルから少しだけ足を浮かせた。排気管から不完全燃焼のガソリンが火を吹いている。消化しきれない意識が唇をはなれると、ときに細かく炸裂するように。
「<施設>へ?」
「あそこが、わたしの場所だもの」
「君の家、誰も住んでいないわけじゃないだろう?」
「父さんが、たぶん。まだ」
「べつに会おうっていうわけじゃないよ。たしかにきょうは、海を見に行っただけさ。ただ、なんとなく近くを通ってみようって、そう思ったんだよ。そんなに気持ちを高ぶらせることもないよ、ただ通るだけなんだ」
鳴海はシートベルトに頭をもたれて目を閉じていた。
「誰にも会いたくないわ」
かすれた声。
「誰にも?」
「もう、みんないなくなってしまったから」
「お父さんが住んでいるんだろう?」
「さあ」
閉じた目が開かない。怜はペダルを踏み込んだ。優しい加速だ。風力発電施設が遠ざかる。
「君にとって、<施設>が家なのかい?」
「……そう思ったことはないわ」
「でも、君の場所だと思えるんだろう」
「そんな気がするだけ」
「じゃあ」
「わからない。でも、家じゃない」
家じゃないから、明日香も真琴も老婦人も子どもたちも、稲村や河東ら医師たちも、家族ではない。
「家じゃない、か」
陽はまだ高い。わずかに空腹。けれど食欲がない。いつも怜はこうだ。<施設>ではもう食事が終わり、あの老婦人はマグカップを片手に談話室にいるのだろうか。明日香と真琴は顔を突きあわせ、ささやくように笑いあっているのだろうか。
「家……じゃ、ないわ」
鳴海もまた、意識は<施設>に戻っていた。<施設>の談話室の、白い椅子に腰かけていた。明日香と真琴が向かい合って何か話している。そうだ、明日香と真琴は家を建てているのだ。二人にも見えない家、二人いっしょに訪れることもできない家、もちろん誰かを呼ぶこともできない家を。きっと二人が考える家は、おたがい微妙に違うものになっているにちがいない。鳴海は彼女たちの家を、部屋を想像することができなかった。明日香は<施設>の自室で気象通報を聴くのが似合っている。真琴は子どもたちを相手にオルガンを弾いているのが似合っている。わたしはそれを眺めているのが似合っている。怜は……、隣でステアリングを握る彼の家は、いったいどんなだろう。すると不思議と、彼の家も見えてこなかった。怜は待合室の日陰で煙草を喫っているのが似合っている。そう思うと、なぜか笑みがこぼれそうになった。奇妙な味の笑みが。
「白石さん」
届くだろうか。呼びかけてみた。
「なに」
「白石さんの家は、どんな?」
「僕の家?」
「うん」
「どんなって、どういう家かってこと」
「そう」
ステアリングを握って、怜はしばし考えていた。前を向いたまま。窓の向こうで森が切れた。
「なにもない部屋だよ。君は<団地>に来たことはないんだよね。そうだな。ああ、<施設>に似ている。そうだ、<施設>に似ているんだ」
「似てる?」
「そう。いまわかった。似ているんだ。いや、本当はぜんぜん似ていないと思う。でも、あの無機質な感じだとか、とりわけ僕の部屋にはね、なにもないんだ。作り付けの棚やテーブルがあるだけでね。君の部屋みたいに。広さは違うし、<施設>と違ってつい最近建てられた建物だから、そういうところはぜんぜん違うんだけど。似てるよ」
「なにもない?」
「だから、広いんだ。なにもないよ」
「わたしの部屋は、狭い」
「広くはないよね」
「狭いわ。でも、わたし、あの部屋を自分の部屋だって感じたこと、ない」
「そうなの?」
「そんな気がする」
陽が傾きはじめていた。まだ強く白く、太陽は腕を焼くのだけれど、ウィンドシールドの向こう側で、たしかに太陽は傾いていた。
「居場所なんだよね?」
「居場所だと思う。だけど、わたしの部屋だと思ったこと、ないわ」
なら、君の場所は、どこなんだい? その言葉を怜は飲み込んだ。中庭を所在なく歩んでいた鳴海の横顔がオーバーラップした。
「君の部屋だろう?」
「わたしがいる部屋よ。あそこはわたしの家じゃないもの」
鳴海は繰り返した。家じゃない。そして胸の内で続けた。でも、わたしは家には住めない。両親や兄が待っている、「わたしの家」には住めない。
「そう考えると、きっと<団地>の僕の部屋も、『家』じゃないんだろうな。居心地はいいんだけど。たしかに僕の居場所はあそこなんだけど、『家』じゃないんだろうな」
沈みかけた街や住人がいなくなった沼地を歩き、そして<団地>に帰る電車に乗り、自室のキーをポケットに確かめたとき、怜はどこかで安心している。自分の場所に帰るのだ。そっけなく、無機質な<団地>の自室は、怜の「場所」なのだ。
「<施設>に帰るかい? もう、まっすぐ」
この国道は旧市街の中心まで一直線。<施設>は市街地の北のはずれだが、中心街を経由してもさほどの距離ではない。小一時間もあればあのポンプ場の角を曲がれる。
「君の場所に」
鳴海はシートベルトにもたれたまま、応えを返さなかった。窓の向こうに首を向け、鳴海は応えなかった。黒い森と、尖塔か見えた。開拓記念塔だ。北海道に鍬が入れられてから、百年を記念して建てられた、前世紀の遺物だ。さらにその向こう、尖塔に負けない高さで、風力発電施設が並ぶ。老婦人はこの風景を知っているのだろうか。おそらく彼女が知っているこの場所と、怜が、鳴海がいま見ている場所はもう、同じ風景ではない。アパートの店子が入れ替わり、間取りだけ同じに家具や壁紙を張り替えたあとのように、移ろっていく風景はめまぐるしい。



