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夏の扉

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 どちらかといえば薄暗くひんやりしていた一階と、陽射しが隅々まで差し込んでいるかのような二階は対照的だ。そして二階には人の姿が多かった。彼らはみなここに入院している患者たちか。だが療養服やパジャマを着た患者はひとりも見られない。廊下を行く少女も、病室を出入りする青年も、普段怜が街で見かける人たちと変わりがない。怜はふと振り返り、そして部屋をぐるりと見渡す。ここと一階では空気が違う。白衣姿の看護婦がときおり顔を見せるほかは病院に来たという気がしなかった。それは初めて<施設>を訪れたときにも感じた印象だ。まるで大学かどこかの寮にまぎれこんだ気分だった。
 窓際の青年は少し身体を傾け、日を浴びながらページを繰っている。怜のすぐそばの女の子ふたりは笑顔を突きあわせ、その姿は授業中、教師に隠れて他愛もない会話にささやきのような笑い声を立てる高校生を思わせた。
 下の待合室とここが決定的に違うところがある。そう、ここには灰皿がない。だが怜はこの部屋に煙草は似合わないように感じられた。テーブルに片肘を突き、大きな窓の向こう、樹々の枝葉がにぎやかになりつつある外を向く。背後の仲良し二人組のささやきあう微笑みに、小一時間前に中庭で聞いたプロペラが回転するような風切音が割って入る。いったい何の音だろう。一定のリズムで、ぶんぶんぶんぶん。ヘリコプターの飛行音に似ていなくもないが、それより数段穏やかだ。
 怜は背中を壁にあずけ、肩の力を抜いた。
「あの……こんにちは」
 それまでは木の葉が揺れる音のようだった背後のささやきが、不意に実体を持って聞こえた。振り向く。後ろの仲良し二人組が怜を向いていた。微笑みは引っ込んでいたが、手前の少女の人懐っこそうな瞳が上目遣い。
「はい」
 怜は二人を向く。上目遣いの女の子と正対する。奥の少女はくりくり動く目にショートヘアが似合っていた。
「新しく入られたんですか?」
 上目遣いの少女は、意外なほど幼い声で訊いた。声と顔が合っていないように思えた。だがどうしたわけか怜は二人がいくつなのかが分からない。
「いえ、外来です」
「へぇ、珍しいですね」
 奥の女の子が言う。彼女の声は容姿に似合わず太かった。
「そうなんですか、珍しいんですか」
「珍しいです。と思いますけど」
 と言ってショートヘアの子を振り返る。ショートの子は二、三度うなずいただけで何も言わなかった。
「そうですか」
 我ながらあまりに無愛想な応対かな、と、怜はとりつくろったような微笑みをつけくわえる。上目遣いの子も微笑みで応える。いったいどこが悪いのか。なぜ街中の人間が忘れ去ったような<施設>で暮らしているのか。二人の屈託ない表情には疑問符がいくつも浮かぶ。
「今日がはじめてですか?」
 上目遣いの子が訊ねる。
「ん、いや、もう二週間になるのかな」
 仲良し二人は顔をちらりと見合わせ、へぇとつぶやいた。
「それが、何か」
 二人の声に対して、怜は自分の声がひどく低く、冷たく感じた。
「いえ、一度も顔をお見かけしなかったから」
 上目遣いで微笑む。これは彼女の癖なのだ。
「一度も階段を上ってこなかったから」
 怜は微笑み方を思い出そうとしている自分に驚く。なにがどうなっている?
「ああ、そうなんですか」
 納得、といった表情で、上目遣いの子がうなずいた。ショートヘアの子は頬杖をついて、さほど怜に気を向けている様子ではない。
「失礼ですけど、もう、長いんですか」
 怜はつとめて冷静な口調で訊いた。興味本位の質問ととられたくはない。そう、自然な口調で。あの老婦人につい訊いたときのように。
「ここに来てですか?」
 幼い声色と比べて、口調はしっかりしたものだ。案外年齢は怜と変わらないのかもしれない。
「ええ」
 怜がうなずくと、また彼女はショートヘアの子と顔を合わせる。「どのくらいだっけ」
「三、四年です」
 ショートの子が答えた。頬杖をついたまま。いくらか愛想のない雰囲気だが、上目遣いの子と二人でいると、バランスがとれているようだ。
「そうですね、それくらい」
 怜を向き直り、幼い声が同意する。
 三、四年。その期間は、怜が環境調査員に任命され、休職するまでの期間と変わらない。彼が日に日に迫ってくる海岸線を歩き、異臭漂う湿地に足を沈ませ、ガイガーカウンターの耳障りな測定音に背筋を凍らせていた時間、彼女たちはすでにここにいた。時の流れだけでなく、ぽつんと怜の知る日常空間からも乖離したこの建物に。
「でも、わたしたちは新入りですよ、どっちかっていうと」
 ショートの子が怜に視線を向けず、言った。左手の指が、テーブルの上でキーを叩くようにリズミカルに動いていた。
「五年、十年っていうひともいますから」
「いちばん長いのって、有田さんよね?」
 上目遣いで友人を確かめる。ショートヘアがうなずく。
「有田さん」
「会ったことないですか。白髪のおばあちゃん」
「ああ」
 あの老婦人か。彼女がやはり最古参か。
「ここにはどのくらいの人がいるんですか」
「ええと」
 相棒が視線を怜からはずし考えをめぐらすと、間髪を入れず、
「二一人です」
 ショートヘアの子が答えた。利発そうな瞳がくるりと動く。
「へえ」
 もしかすると自分が二二人目になるのだろうか。怜はむしろそうなることを自分が望みつつあるのを知っていた。ここに住むのも、悪くはないだろう。そんな考えを察したのか、ショートの子が言う。
「外来から入院に切り替えますか?」
 つややかな肌だった。おそらくふたりは十代に違いない。
「部屋は空いているんですか?」
 怜は冗談とも本気ともつかない口調で言った。
「あなたには無理だと思います」
 ショートの子は表情を変えず、愛らしい瞳を怜に向けたまま、さらりと応えた。怜は彼女の言葉をすぐには自分のものにできなかった。
「どうして」
「そういう顔をしてます。あなたはまだ街の人間です」
 頬杖をついたまま。乾いた拒絶だった。上目遣いに怜をうかがうもうひとりも、彼女の言葉を否定しない。だが同意もしなかった。会話はそれっきり止まってしまった。少々ばつの悪い思いで怜は彼女たちから窓へと向き直った。ふたりもそれ以上怜に話しかけたりはせず、またもとのようにささやきあうような笑い声を立てはじめた。怜は失念していたのだ。ここがいったいどこかを。
部屋で思い思いの時間を過ごす人々は、そっと自分の世界を守っているようにも見える。もちろん怜に最初に話しかけたのは彼女たちだ。しかし、それは見慣れない訪問者にたいしての詰問だったのかもしれない。調子にのった自分が悪かった。怜は黙ってあの風切音を数えていた。


   八、階段?
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介