夏の扉
受付の女の子はディスプレイ(液晶ではない真空管式のCRTだ!)に視線をすえ、ピアニストのように指を踊らせている。黒く肩にかかるかかからないかのショート・ヘア。彼女の席の奥は事務室だろう、ファイルでごちゃ混ぜの机が並び、いく人かの事務員。彼らの表情は、怜が知る環境調査員たちの横顔とかわりない。そう、ただの思い込みなのだ、ここが時間をさかのぼった空間だという認識は。みんな、稲村やあの少女でさえ、怜と同じ時間を生きている。
怜は苦笑を浮かべた。向けどころのない憧憬。ふたたび四つの窓を向く。が、怜の立ち位置ではガラスが反射して窓の向こうは見えなかった。ほっとひとつ吐息を漏らし、すっかり指定席になりつある灰皿前へ移った。
「あら、珍しいわね」
稲村でも受付の女の子でもあの少女でもない、ややかすれた、それでいて心地よい声が投げかけられた。振り返る。
白髪、というより乳白色の豊かな髪に薄色の上着を羽織った女性が、待合室の端に立っていた。滑らかな曲線の鼻梁にシルバーのフレームの眼鏡がのっている。老婆、いや老婦人と呼ぶのがふさわしい容姿だ。怜は火の点いた煙草を指に挟んだまま、言葉を探した。
「遠慮なさらず喫って下さい。そのための灰皿ですから」
老婦人はどうやら玄関横の階段を降りてきたようだ。靴ではなく、スリッパをはいている。
「外来の方?」
老婦人は怜の横を過ぎ、差し向かいの席に腰を下ろした。
「ええ」
「それもまた珍しい。驚いたでしょ、時代遅れの建物で」
物腰は柔らかく、笑顔が暖かい。こんな建物よりも、時間をへていい具合にこなれた洋館で、紅茶を煎れているのが似合いそうだ。
「いえ」
怜はいささかぶっきらぼうな受け答えをした。そうだ、自分は人見知りをするんだ。
「どちらから?」
煙草の煙を気にする様子もない。
「<団地>です」
「中央区、南区?」
老婦人は古い行政区の地名を口にした。強制執行対象者、そして移住者向けの高層住宅は彼女に習って言えば西区から中央区、南区にまたがる山裾に建設されている。怜はしばらくぶりで旧行政区の名を聞いた。
「南区です」
「じゃあ、藤野のあたりかしら? それとも石山?」
「あのあたりに住んでいらっしゃるんですか?」
次々と彼女の口から登場する古い地名に、怜は胸の奥底が振動していた。
「今は、ここに住んでいるわ。ずっと昔、家が真駒内にあったのよ」
老婦人は目を細めた。ずっと昔。その言葉が怜の耳に残った。怜は伸びた灰を灰皿に落とし、そのまま煙草は揉み消した。
「あら、喫って下すってもよかったのよ。気を使わないで」
「いえ」
「あのあたりも変わってしまったでしょうね」
吸い殻から濃密な煙が昇り、老婦人と怜のあいだにまっ白な螺旋階段ができた。
「<団地>ができましたから」
「<団地>、ね。みなさんそういう風に呼ぶのね」
老婦人の髪の色に、<団地>の外壁は似ている。乳白色の巨大な壁が、斜面にびっしりと立ち並ぶ。正式名称など、住人たちですら、もう定かではない。
「ここに来られて、もう長いんですか」
稲村に感化されたか。自分から話題をつなぐことなど、昔はしなかった。
「わたしは、あなたがさっき見ていた絵を描いた人たちを知っているわ」
怜は絵を振り返った。四つの窓だ。目の前の老婦人は、生きてあの窓の向こうを歩いていたということか。
「あなたが生まれる、ずっと前から」
怜は言葉を探すのをやめた。この人の前であれば、沈黙が何よりも雄弁になってくれる。
会話が止まると、稲村のよくとおる声がここまで聞こえてくる。話す中身までは聞こえないが、穏やかに、優しく、おそらくはあの少女にあいづちを打っているに違いない。診察室のドアは、開け放たれたままなのだろうか。中庭からプロペラが回転する音が聞こえていた。いったい、何の音だろう。
「電車でここまで来ているのね?」
老婦人の顔は、窓からの陽射しに逆光線。白髪が輝いていた。この人はいったいいくつなのだろうか。
「ええ」
「有田さん!」
野太い声が降ってきた。そう、まさにそんな感じで誰かが呼んだ。声の方角を探ると、稲村と同じ白衣を着た、ひげ面の男が廊下の角から顔を出していた。どうやら老婦人の名を呼んだらしい。
「河東先生」
老婦人が応える。かわひがし。彼の名か。
「時間はきちんと守ってくださいよ」
こちらの男もまったく医師には見えない。丸顔の下半分を髭で覆い、短く刈った髪に大きな目。まるでクマのぬいぐるみだ。
「どうせもうすぐお昼でしょう。急ぐとお腹が空きますよ」
老婦人は孫に語りかけるような口調で河東医師に言う。微笑みを絶やさずに。彼女も患者なのか。河東は頭をぱりぱりとかいてみせ、そこでようやく怜に気づき、目線で挨拶をよこした。
「余計なお世話ですよ。さあ、来てください。このあいだの話の続きを聞かせてもらわなくちゃいけない」
クマのぬいぐるみは眉間にしわを寄せてみせた。それでも愛敬のある顔立ちだ。
「わかりましたよ。それではうかがいます。……そうそう、」
腰を浮かせると、老婦人は怜を向いた。
「お名前、よかったら教えてくださいませんか」
老婦人の身長は、怜よりも頭ひとつぶんほど低そうだ。だが背筋が伸びている。ますます年齢が分からない。
「白石怜です」
「白石さん。……これまた懐かしい名前だこと」
老婦人は「それじゃあね」といっそう目を細め、河東のあとに続き廊下に消えた。これまた懐かしい名前だこと。怜の苗字は、この街の古い地名と同じだった。彼女が去り、ふたたび待合室にひとりになってから、怜は老婦人の名を聞くのを忘れていたことに思いいたった。
稲村の声はまだ聞こえていた。
七、階段?
階段は光にあふれていた。踊り場の窓が南を向いているからだ。<団地>の非常階段のように狭苦しくなく、ゆったりとした造りだ。踊り場の窓からは芽吹いたばかりのハルニレが見えた。怜は足を止めた。陽射しが暖かい。枝を透かして市街地がのぞく。乱杭歯のような<団地>は見えなかった。それで怜は何だかほっとした。あの四つの窓に描かれた世界が、まだ残っている。
階段を上がりきると、階下の待合室とよく似た造りの部屋が彼を迎える。異なるのは、階下がベンチシートなのにたいして、ここはテーブルを挟んで椅子が置いてあるところか。簡素な街道沿いのレストランを思わせる、白い天板のテーブル。グリーンの背の華奢な椅子。四人がけのテーブルが合わせて六組、二人がけのテーブルが四組、整然と並んでいた。窓際端の席でラフな格好をした青年が、怜に背を向け何やら本を読んでいる。向かって右の壁際のテーブルには、額を寄せて話をしている女の子。向かって左のテーブルには、チェス盤を挟んだ、これまた怜と年格好の変わらない青年が二人。誰も怜には気づいていない様子だった。怜はそっと、窓際の、読書青年の反対側、四人がけのテーブルに座った。額を突きあわせていた女の子がひとり、ちらりと怜を向き目を細めて会釈した。