夏の扉
風切音を一四三七まで数えた。西向きの窓にも日が射し込みはじめた。いくつ流れる雲を見送ったろうか。見た目はあんなに白く美しいのに、中は汚染物質でいっぱいだ。いや、この街はまだいい。南へずっと下ったかつてこの国の首都があった地区では、大陸から偏西風に乗って流れてくる奇妙な色の雲で、ずいぶんと害を被ったという。いまでは文字どおり「水の都」と変貌してしまった、世界有数の大都市東京。東京湾と霞ケ浦がひとつになってしまい、半世紀前までの光景はすべて失われてしまったのだ。きっとこの街も同じ運命をたどってしまうのだろう。ただひとつ救われるのは、緯度の高さだ。かつての首都より西の地域では十数年来熱病が蔓延している。そちらの方が、怜が罹った「流行病」よりも深刻かも知れなかった。
一五六三、一五六四、一五六五……。怜は目を閉じ、青年が本のページを繰る音、チェス盤の駒の動き、女の子ふたりのささやき、風切音、いろいろな音を見ていた。目を閉じると、普段の数倍に聴力が上がるような気がする。おそらく脳が一度に認識できる情報量は制限されている。だから視覚を一時分離すれば、耳から得られる情報のほとんどを処理できるのだろう。怜は音を見る。
誰かが階段を上がってくるのが見えた。一歩一歩、足元を確かめるように。階段を上がりきり、かかとを少しひきずり気味にして歩く。こちらへ向かってくる。階下にいる人間は、医師二人、事務員、そしてあの少女と老婦人。ほかにもいるかもしれないが、この二週間、階下で顔を見たのはそれだけだった。
「鳴海さん、お疲れ様」
あのショートヘアの子の、低い声がそう言った。なるみさん、おつかれさま。
「明日香ちゃんは、午後から?」
聞き覚えのある、あの平淡で透明な声が言った。あすかちゃんは、ごごから?
あすか。あのショートヘアの子の名前か。
「うん。稲村先生、元気?」
「……」
ショートの子の問いに答えた少女の声は聞き取れなかった。
「そうか。わかった」
「鳴海さん、食事どうするの? 部屋で食べるの?」
上目遣いの子の声だ。そうだ、自分が階段を上がってきた理由を失念していた。受付の女の子にこのあたりで食事ができる場所はないかと、場当たりな質問を投げかけたら、もうすぐお昼が出ますから、二階で待っててください。ひとりぶんなら余分に用意できますから。そう言われたのだ。
「一緒に食べない?」
ショートの子の声。
「……」
「わかった、そうしよう。わたしたちはここにいるけど、鳴海さんは?」
「ちょっと部屋に戻る」
「うん。じゃあ、あとで。席とっておくからね」
「ありがとう」
足音が去る。そして、またささやきあうような笑い声。
あの少女とうしろのふたりは仲がいいのか。それにしてもずいぶんと雰囲気が違うじゃないか。怜は目を閉じたまま風切音を数える。膝頭が日を浴びて暖かい。春の陽射しだ。まだ狂暴さのかけらもない、暖かい太陽だ。夏の陽射しのもとでは、あの少女は塩の柱になってしまうのではないだろうか。怜はいらぬイメージを想起した。あの子に麦藁帽子をかぶせて白のワンピースでも着せたら、さぞかし似合うに違いない。うしろのふたりは、どうだろう。ショートの子は、水着姿で砂浜を駆けるだろうか。上目遣いの子が苦労して造った砂の城を、彼女なら喜んで蹴り崩しそうだ。でも、そんな風景は甘美な懐古の中でしか存在できない。怜には記憶にない「記憶」の浜辺だ。そこでなら彼は冷たい飲み物を片手に、穏やかな熱い風を全身で受け止められる。渚ではしゃぐ彼女たちを遠目に見ながら。
怜はふと思った。まったく似ても似つかないと考えていたあの少女とうしろのふたりだ。瞳の色だけは同じだった。同じ、というか、系統が近かった。澄んでいるのだ。白目と黒目の境が線を引いたようにくっきりとしている。茶色というより、ほとんど藍色がかった濃い色の瞳だ。自分の目は、どうだったろうか。
鼻腔をくすぐる香ばしい食べ物の匂いが漂いはじめていた。食べ物の匂いをかぐこと自体が久しぶりだ。自宅で食べるシリアルに香りはない。職場で支給されたレーションにも香りはなかった。もちろん、温もりだって感じなかった。それが当然だった。
廊下の遠くで鐘の音が鳴っていた。電子音ではない、生の音だった。地下鉄の終着、地球ゴマも定時に鐘の音を鳴らす。あちらも生音だ。でもいかにも人工的な街に響く鐘の音は、胸を締めつけられるような寂寥を感じても、ほかには何もなかった。怜はようやく目を開いた。部屋の席は、いつのまに集まってきたのか入院者たちで五割以上が埋まっていた。彼らの足音を感じなかった。彼らがそれぞれの席についたとき、ちょうど怜は追憶の浜辺で海風を受けていたのだ。
チェスを続けていた二人組も盤をたたみ、かしこまっていた。背後にいた女の子ふたりは四人がけのテーブルに移動し、そこでささやきあっていた。窓際にいた読書青年の姿はなかった。テーブルの席を数えると、全部で三二席。入院者は二一人。半分ほど埋まったテーブル以外の患者たちは自室で食事をとるのだろうか。それともここに集まった人たちは、病状が軽いのか。怜は四人がけのテーブルにひとりだった。
階下から稲村と河東が上がってきた。事務員たちの食事をケータリングするのだろう、食事を載せたカートが、階段横のエレベータに消えた。そしてこの部屋に集まった人数分の食事も運ばれてくる。配膳係は看護婦たちと同じ白衣。そのうしろからあの少女が顔を出した。首が細い。看護婦たちより頭半分ほど背が高い。ショートヘアの子が手招きをし、少女がテーブルにつく。彼女は何だか悲しげな微笑をたたえていた。
「空いているかしら?」
老婦人が怜に微笑みかけている。
「どうぞ」
声は掠れてしまった。
窓の桟が日時計のようにテーブルに影を落としている。そこに老婦人と怜の食事を載せたプレートが運ばれてくる。ほのかに湯気が上がっていた。トマトとジャガイモのスープにパン、マッシュポテトと一切れの肉、小皿のサラダ、グラス一杯の水。量は少なすぎず多すぎず。怜にとってはご馳走にひとしいメニューだ。夕食もシリアルで満足できる彼は、たとえ外食しようともこれほどの品数を食べたりはしない。
誰かが号令でもかけるのかと思ったら、プレートが到着した順に、それぞれが勝手に食べはじめている。部屋はしばし食器とスプーンが触れ合う音や咀嚼音、そして川のせせらぎのような話し声でいっぱいになった。目を開いた怜は、もうひとつひとつの会話を聞きとることはできなかった。
「ここの食事は初めてね」
老婦人がパンをちぎりつつ怜に言う。怜は口に運ぼうとしたスプーンを止め、
「ええ」
短くうなずいた。
トマトスープは美味しかった。グリルされた肉は、少々塩味が足りなく感じたが、不味くはなかった。この際材料が何なのかを詮索はするまい。温もりを感じられるだけで上等だ。
「美味しそうに食べるのね」
顔を上げると、老婦人の顔が不意に五〇年は若返ったような気がした。怜はあわてて瞬きを数回。彼女の顔には幾筋かのしわが刻まれていた。
「そうですか」
「ええ」
怜はパンをちぎることはせず、そのままかじりついた。適度な歯ごたえと、噛みしめる甘さ。