夏の扉
明日香はそう言ってから、自分の言葉の重要さに気がついた。風邪でも引いたのかな。心が風邪を引いているのはみんな同じ。けれども、身体が風邪を引いたら、たとえば何か病気になってしまったら。
「お見舞い、行ってみたら?」
真琴のレモネードがようやく、空になった。ぶんと音がして、空調が停止した。窓の向こうの木立が微動だにしていない。風がない。風力発電は稼動しているのだろうか。
「お見舞いね。鳴海さんが帰ってきたら、訊いてみるわ。あのひと、わたしなんかよりずっと有田さんとは仲がいいみたいだし」
明日香のグラスにいくつか残っていたクラッシュアイスは、形をとどめず雫になっていく。結晶から、不安定な液体に。
「暑いね」
真琴がつぶやいた。彼女はもう、何かに気づいていた。びっしりついたグラスの汗を人差し指でぬぐっていた。
「暑いね」
明日香も同意した。彼女はまだ、真意に気がついていなかった。想像はできても。あまり愉快ではなかった。
「もう一杯、飲む?」
真琴におかわりをすすめたが、軽く右手を上げて遠慮のサインをよこした。
「いいよ、飲みすぎちゃうと、汗かいちゃうから」
「そういうものなのかな」
「明日香ちゃん、あんまり水も飲まないよね、めずらしいよ、きょうは。氷水なんて飲むから」
「食事のとき、飲んでるじゃない」
「普段はぜんぜん飲まないでしょ。蒸留水だから嫌いなのかと思ってた」
「これ、蒸留水じゃないよ。味がするもの。蒸留水なんて、まずくて飲めないよ」
「ふうん」
明日香は融けた氷を口に含んだ。冷たい。
夏だから、冷たい。それが、心地いい。
外の夏は、いまいったいどうなっているんだろうか。声に出そうと思ったが、真琴がテーブルに落ちた雫を伸ばして何かを書いていて、それを見てやめた。なにを書いているのかさっぱりわからないけれど、文字なのか絵なのか、真琴がいちばん外の世界と無縁に思えた。子どもたちとここで暮らし、いつか海岸線が間近に迫ってここが閉鎖されるときまで、きっと彼女はかわらない。
ならば、自分は?
明日香はぎょっとした。
ここを出たあとの自分を、わたしは考えている。どんな形にしろ、きっといつか、ここを出る日がきてしまう。べつな施設へ移管されるのか、それとも冷たく、息が止まった自分がここから運び出されるのか。明日香は直接見たことはなかったが、数年に一度、そうしたかたちでここを出て行く患者がいるらしい。
そうはなりたくないと、漠然と思った。
真琴はまだ、指先に雫をつけ、何かを白いテーブルに描いていた。明日香には二次関数のグラフに見えた。
不愉快だった。
四六、ペダル
沼地のような川を渡った。ひびだらけのアスファルトと、錆だらけでリベットがいくつか抜け落ちたあとが見えるトラス橋。水面は橋げたのすぐ下にあって、のっぺりと流れていた。ところどころで渦を巻きながら。
潮の満ち干で海水が逆流し、このあたりに淡水魚はいない。葦が繁る河原ははてしなく広く、どこからどこまでが湿地なのか境界はひどくあいまいだ。左手に水没した工場を眺めながら、怜はステアリングをそっと握っていた。
助手席で揺れていたひまわりは、いまは鳴海のひざの上にある。二本、寄りそい、夏の思い出。陽射しがまぶしい。
「まだ見えないかな、ほら、まっすぐ。あれ、森だよ」
「森?」
「野幌の。国道は森に飲まれてしまったらしいよ。そもそも街全体が、森と川にはさまれて、<機構>の強制執行どころじゃないみたいだ。住んでる人はもうずいぶん少ないって聞いてる。君の住んでいた町は、でもここじゃないんだろう?」
橋を渡りきり、市街地に入る。捨てられた家、空き地、そしてそこここに繁茂する樹。塩害のせいか、このあたりはまだ背の高い樹がはえていない。けれど家々の屋根越しに、黒く広がる原生林が見えた。
「ここ、来たこと、ないわ」
「じゃあ、森のちょうど反対側だね。ずっと向こうだ。あっちも森がずいぶん広がっているらしいけど、まだ人が住んでる。いや、こっち側にも街はあるんだけど」
「くわしいのね」
「仕事で来たことがあるだけだよ」
「さっきの橋を渡って?」
「いや、国道沿いにね。べつに沼地だけが仕事場ってわけじゃない。たまには森にも入るさ」
自嘲めいて言った怜の横顔は、けれど自虐的ではなかった。鳴海はひまわりに目を落として、丘のふもとで別れた男のことを考えていた。彼はひとり、まだあの道を歩いているのだろうか、と。もうどこかの集落にたどりついて、あの人を食ったような顔をして食事でもしているだろうか。こうして鳴海が「誰か」のことを考えるようになったのは、いつからだったろうか。少なくとも怜が外来として現れるまで、鳴海の思考は時間といっしょに止まっていた。
車は右手に工場跡地を眺めながら、市街地に入った。市街地といっても、木立と木立に隠れるようにしてぱらぱらと家が並んでいる程度。ささやかな市街地だ。ささくれだったアスファルトからは雑草が繁り、視界の先には黒々とした森がある。鬱蒼とした、という言葉がぴったりとくるような森の中に、白く浮き出ているのは無数の風車だ。この地域では最大規模の風力発電施設がここにある。強制執行がかけられている旧市街より、この街は標高が一〇〇メートルほど高い。石狩湾から吹きつける風は一年を通して安定して強く、だから<機構>はここに風力発電施設を造った。
「また、風車」
ひまわりをひざに乗せ、鳴海はつぶやいた。
「風車だね」
ステアリングを握る怜もまた、風車を数えた。数えきれないほどのプロペラが風を受け、一心に回転を続けていた。
君の家はどこにあるんだい?
怜は鳴海に向けてその言葉を放ろうとしてためらっていた。彼女は「戻りたくない」といつか言っていた。いや、「戻れない」だったか。帰る場所がない。けれど、君の家はまだ建っているんだろう?
車は国道との交差点に出た。右に折れ、直進。沈黙した信号機と、道を行く人々。ウィンドシールドの向こうに生活があった。雑多で、つつましい生活だ。
窓を開けた。土ぼこりの匂いと、かすかに潮の匂い。ここは森に抱かれつつある街でもあったが、川の街でもある。川はすぐ先で海に溶け込んでいる。だから海の匂いがする。夏空に浮かぶ雲を数え、いま鼻腔に漂う海の匂いがけっして不愉快ではないことに、怜は驚いた。
「海の匂いがするね」
前を向いたままに言ってみた。もとより返事は期待してはいなかった。けれど鳴海は応えた。
「なんだか、ハッカのみたいな匂いがするわ」
彼女は海の匂いを感じていたのではなかった。
「複雑だね、この辺は」
国道がゆるやかに左に弧を描く。続いて右へ。牧草地とサイロ。かつてこの地を象徴するのに必ず用いられたランドスケープだ。ひょっとしてあのひまわり畑で別れた男も、首都をはなれて海を渡るとき、真っ先に思いついたのは牧草地とサイロかもしれなかった。サイロに並んで建つ小屋のマンサードの屋根は深緑、壁はくすんだ赤。誰か、まだ住んでいるのだろうか。すぐ背後には原生林が迫っていた。森の匂いが強く、もう潮の匂いは届かない。
「……帰ろう」



