夏の扉
まるで初等課程の新任教師と新入生だ。だったら自分は、先生に紹介された六年生? お姉ちゃんとは、むずがゆい。けれど子どもたちの前ではそんな意識が消し飛ぶ。不愉快さだけが残る。理由は、ある。
「こんにちは」
幼い子どもにありがちな舌足らずなしゃべり方ではない。鳴海も顔負けの、平淡でいくぶん早口の挨拶をしたのは、沙耶香という少女だった。翔太はこくりとうなずいただけだ。
「……こんにちは」
無視するのも大人気ない。それは自分のスタイルに反する。だから、沙耶香に負けず、感情をこめない挨拶を返した。
自分のグラスを持ったまま、明日香は突っ立っていた。座ろうにも、椅子をわざわざどけて、そこに子どもたちが立っている。むげにどけろとも言えない。子ども相手にそれはできない。いくら嫌いでも。だから明日香は突っ立ったままだ。
「座れば」
グラスをテーブルに置き、明日香は相手の顔を見ず、呼びかけた。そう、子どもたちに。
「いいの。もう、すぐ帰るから」
「帰る? どこに」
「お部屋に」
自分たちの棟か。明日香は、自分がいま、ひどく外にたいして敏感になっていることに気づいていた。
「はやく帰れば。ここはあなたたちの来るような場所じゃない」
いらだちを隠しきれない、いやらしい口調になった。明日香は言ってから失言だったと後悔した。
「明日香ちゃん……」
上目遣いに、真琴が悲しそうな目を向けた。
「うん、帰る。じゃあね、お姉ちゃん」
沙耶香はさっと身をひるがえすと、足音もたてずに駆けていった。翔太の手を引いて。沙耶香が言った「お姉ちゃん」が真琴を指し、明日香を指したものではないことくらい、自分でもわかった。悲しみといらだちと後悔と。負の感情にめまいがする。明日香はグラスをあおってごまかした。
「ちょっと、ひどいんじゃないかな」
グラスを戻し真琴を向くと、まっすぐに明日香を射る瞳が揺らいでいた。
「なんで明日香ちゃんがあの子たちを嫌ってるのか知らないけど」
「べつに嫌ってなんかいないよ」
「嫌いじゃなかったら、あんな態度はとらないでしょ」
「わたしはとりあえず嫌ってみるのよ。わかってるくせに」
「何年いっしょにいると思ってるの?」
「三年だっけ?」
「ちがうちがう。あの子たちよ。小さな子を相手に、明日香ちゃんらしくない」
「わたしらしくない?」
子どもたちが去った椅子に明日香は腰をおろした。
「とりあえず嫌ってみるって、それはなんとなくわかるけどさ」
結露したレモネード入りのグラスを取りあげ、ちびりとひとくち。唇を潤わせるように。
「たとえば白石さんにたいしてとか、そういうのとぜんぜんちがうから」
「あの環境調査員?」
「嫌いじゃないでしょ、べつに」
「嫌いとか、そういう次元でもないって。ただの外来でしょ。<機構>の人間だもの。そもそも住む世界がちがうのよ」
「あの子たちは、おんなじ世界に住んでいるのよ」
「同じ建物の中で暮らしているってだけよ」
もうひとくち。
「ここは<施設>だよ。沙耶香ちゃんは稲村先生にかかってるの。鳴海さんと同じ」
「そうなの? 稲村先生、小児科の先生だったのか」
「明日香ちゃん」
諌めるように。真琴が声を荒げるのはめずらしい。少々気圧され、明日香はグラスの氷を回した。くるりと、一回転半。
「どうして?」
真琴の顔を正面からまともに見ることは少ない。いつもうつむきがちで、上目遣い。鳴海を正面から見ることが少ないのと同じ。あのひとも誰かと正対することがない。考えれば、ここの人間はみんな。医師たちですら、身体半分をデスクに向け、視線だけがこちらを向く。
「なにが?」
「どうして、あの子たちが嫌いなの? だって、嫌うほど明日香ちゃんはあの子たちを知らないでしょう」
「生理的に受けつけない」
言ってしまってから、明日香はひどい自責の念にかられた。言うべきではなかった。けれどポケットからこぼれ落ちた言葉はもう拾えない。
「なに、それ」
瞬間、真琴がなにか異物でも見るような目を向けた。明日香は顔をそむけた。痛い。視線が痛い。
「なに、それ」
明日香が思わずこぼしてしまった言葉が、まだ談話室の壁面をころころと転がり続けている。目で追うだけで、拾いに席を立つことができなかった。真琴の視線が痛い。
「わかってたでしょ、わたしはこういう人間。だから、こんなところに押しこめられて、もう帰ることもできなくて、やることといったら、真琴とふたりで住むこともできない家を建てたり、役にも立たない気象通報を聞くだけ。……このまま歳をとっていくのかと思うと、ぞっとする」
「じゃあ、外へ出ればいいじゃない。鳴海さんみたいに」
「いや」
「どうして」
「外に出たって、何もないもの。わたしだって、あの環境調査員ほどじゃないけれど、少なくとも真琴なんかよりは、いま世界がどうなっているのか知ってる。衛星写真だって何枚も見た。外に出たって、もうなにもないのよ」
子どもたちを嫌うことと外の世界の話と、いったいどんな関係があるのだろうかと、内心では訝りつつも明日香はべつなポケットに入れたままだった言葉をぶちまけた。
「だから、わたしはここしかいる場所がないの」
「あの子たちだってそうよ。わたしたちよりずっと、外の世界を知らない。ここがあの子たちの世界なの。だから、わたしたちは同じ世界に住んでいるはずなのに、どうして、明日香はあの子たちが嫌いなの?」
「真琴、知ってるんでしょ」
「……なにを?」
明日香のグラスは減っていくのに、真琴のレモネードは減らない。クラッシュアイスが融け、上澄みがまるで鉱石のようだ。
「あの子たちのでどころ」
「……でどころ?」
うなずくかわりに、明日香は残った氷水を飲み干した。
「あの子たちはみんな、双子でしょ」
「双子? 沙耶香ちゃんと翔太君が?」
「ちがう。小児棟にいる全員」
「言ってる意味が、わかんないんだけど」
明日香は融けてやせた氷を噛み砕く。歯に沁みた。この<施設>の医師たちは、歯科にも通じているだろうか。だったら一度診てもらったほうがいいかも知れない。
「ビスケットの話をしてあげようか? それともあの子たちが世話をしているトマトの話がいい?」
「何のこと?」
「あるところに働き者の農夫がいました。その年は豊作で、立派なトマトがたくさん実りました」
「何の話?」
「まあいいから聞いて」
真琴も応えるかわりにレモネードを飲んだ。それでもグラスの半分も減っていない。
「けれど農夫は不安でいっぱいでした。次の年も、また次の年も、立派なトマトが実るのでしょうか。その年の夏はさりとて天気がよいわけでも、また丹念に手入れをしたわけでもありませんでした。だからなおさら農夫は不安でした。きっと偶然、そのトマトは実ったのです」
奇妙な音をたてて天井のエアコンが起動した。冷風、けれど穏やかな。作られた秋風だ。
「農夫は思いました。今年植えた苗木と同じものをそのまま来年、使うことができたら。そう、ビスケットを型にはめて焼くみたいに、同じトマトを作れたら。いくらでも同じトマトが作れるような、そんな肩抜きがあったら」
真琴は明日香の意図を感じたようだった。悲しげな瞳を伏せた。



