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夏の扉

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 逆に訊かれ、怜は答えを探す暇にスロットルを開けた。排気音が高まる。男がちらりとふりむいた。怜は軽く手をあげ、彼を追い越す。鳴海とともに。彼女は目で男をなぞっただけだった。
「夏休み、か。ひどく暑い思い出しかないよ。発電所の事故の後遺症だとか、知ってのとおり海に遊びにいけるはずもなかった。だから、そう、僕にも思い出はないな」
 ウィンドシールドの向こうに見えていた男は、ルームミラーの中へ。またいつかどこかで会うこともあるのだろうか。
「おばあちゃんの家」
 右のカーブにさしかかり、ゆったりと曲がっていくそのさなか、鳴海がつぶやくように、まるでひとりごとのように言った。
「……川」
 こぼれ落ちる独白は、ようやく効きはじめたエアコンの冷風に乗る。
「川? 川に行ったの?」
「夜、明かりを点けた小さな舟を、川に流すの」
 左のカーブ。行きとは反対に。森はつづく。梢の先に青空がのぞく。
「ふたりで?」
「河原にはいっぱい人がいた。みんなが舟を流すの。川は明かりを点けた舟でいっぱい。ぼんやりと明るくて、河原の石はぬるぬるしてて、たくさんの舟が流れていくの。でもみんなが流れていくわけじゃなくて、橋にぶつかったり、かたむいて沈んだりして。わたしとおばあちゃんが流した舟は、でも一回も沈んだりしなかった」
「灯篭流しだね」
「灯篭?」
「宗教行事の一種。この国の古い行事だよ。死んだ人間の魂が、夏の終わりに帰ってくるんだってさ。帰りは灯篭に乗って、川を下って帰っていく。そんなしきたりだよ」
 短い直線にさしかかる。スロットルをあおる。速度計の針が時計回りに跳ね上がる。
「それが君の夏休みの思い出か」
「帰りに、かき氷を食べた。ふたりで。家まで歩いて帰った。堤防をはなれて、家までおばあちゃんとふたり、暗い道を歩いたわ。街灯が並んでて、虫が鳴いてた。おばあちゃんの家は、公園のそばに建ってた。……歩いたけど、どんな話をしてたのか、わたし、憶えてない」
「かき氷、か。僕は夏でも寒い街で育ってしまったから、あまり縁がなかった。灯篭を流すような川もなかったし、家のまわりは工場だらけだった」
 錆色の工場、火を吹き上げる煙突、港の貨物船、鳴き砂の海岸、みんな沈んでしまった怜の思い出。
「よかったじゃないか。君には夏休みの思い出があるんだ」
「いったいいつのことなのか、思い出せないわ。そんなこともあったって気がするだけ」
「いいじゃないか。……夏休みにおばあちゃんの家に旅行か、僕もそんな経験をしてみたかった」
 軽くブレーキ、上り坂、もうすぐ風景がひらける。すると空に融けこむ水平線が見えてくる。
「いつのことなんだろう。こんなこと、思い出したの、すごく久しぶりだわ」
 鳴海は両手で頬をはさんで、うなだれた。風に髪が舞い、そのとたん森が切れた。交差を、左へ。右手奥に、かすかに水平線が見える。石狩湾上空には、真っ白い積雲が湧き出していた。
「久しぶりだわ……」
 白い破線のセンターラインはところどころかすれて、アスファルトはがたがただ。来た道を帰る。
「その、おばあちゃんの家ってどこにあったんだい?」
 スピードは控えめに、鳴海が両手を添えるひまわりが震えていた。
「憶えてない」
 くぐもったつぶやきは、今にも排気音にかき消されそうだった。
「……わかんない」
 怜は窓をすべて閉じた。外界と遮断され、車内は排気音とエアコンが稼動するファンの音だけ。
「さあ、これからどうする? まっすぐ帰るかい? まだ、日は高いよ。稲村先生、夕方までに帰ればいいって、そう言ってたんだよね」
 うつむいたまま、鳴海は小刻みにうなずいた。
「南を回って帰ろう。森林公園まで行ってみるかい? 落ちてない橋があるはずなんだ」
 鳴海の反応はなかった。ひまわりが震え続けていた。
「君の家、森林公園のそばなんだろう? べつに寄ろうっていうんじゃない。近くを通るかもしれないけど。いいかい?」
 ぴたりと鳴海はうつむいていたが、ひまわりはまだ震え続けていた。返事を待つ。
「よし、じゃあ、南を回るよ」
 怜はクリップボードの地図を一瞥し、進路を探す。落ちずに健在の橋と、荒れず、車が走るのに耐えられる道路。怜が目指す森林公園までは三〇キロあまりだ。ただし前世紀の地図の上での話だ。国道が国道ではなくなり、川幅が倍近くに広がったいま、迂回に迂回を重ね、まともにたどりつけるとも限らない。けれど、怜はステアリングを南に向けた。
 視界の端に、震える二輪のひまわりを確かめながら。
 夏休みの思い出を、鳴海はたどっているのかも知れない。どんな記憶なのか、怜は想像するだけ。
 ひまわりはまだ、小刻みに震えていた。


   四五、ビスケット

 グラスを持った手が痛いほど冷たい。真琴のレモネードと、自分の氷水。こぼさないよう、静かに。談話室が明るい。窓は西を向いている。陽が傾きはじめたのだ。午後のお茶ならぬ、奇妙なドリンク・バーだ。イングリッシュ・アイビー越しに、真琴の頭がちらちらと見える。お待たせ、とでも声をかけようか、そう思ったとき、真琴の差し向かいに新たな客がいることに気づいた。
 子どもたちだ。
 <施設>では入所者たちのあいだで暗黙の境界が引かれていると思う。たとえば、老婦人たち古株の入所者たち、明日香たちの若年層、そして、子どもたち。大まかにわければこの三つ。例外はあるが、たいてい世代間の交流はない。
 指先のしびれるような冷たさが、やがて明日香の全身に伝播する。胸の奥まで。
 真琴は例外だ。子どもたちに慕われている。少なくとも明日香にはそう見える。慕っているのでなければ、子どもたちのほうから談話室にやってくることなどない。オルガンの伴奏でもねだっているのか、はたして彼らにそんな子どもらしい一面があるのかどうか、明日香はいぶかしんだ。限りなく作り物のような瞳は澄みわたっていた。そういえば、いつかあの環境調査員、怜が言っていた。ここの人間の目が澄んでいる、と。
 自分の目も澄んでいるのだろうか。曇りは晴れているのだろうか。
 真琴の向かいに小さな頭がふたつ並んでいた。てっきり座っているのかと思ったら、立ち話だった。沙耶香と翔太、真琴から聞いたふたりの名前は確かそんな名前だった。屋上の温室の守で、いつも寄り添うようにして一階の廊下を歩いている。小児棟は音楽室のさらに奥、図書室へ向かう途中で枝分かれする廊下の先だ。行ったことはないし行きたいとも思わないが、この建物の存外な広さにあらためて気づいた。
 しびれる指をいまさら思い出した。明日香はなにも言わず、真琴の前にレモネードを置いた。気配を消していたわけでもないのに、真琴も子どもたちも明日香が戻ってきたことに気づかなかった様子だ。きょろりとした双眸が二組、明日香を見上げていた。けれど明日香は目を合わさなかった。
「ただいま」
 たった数分給湯室へ行っていただけなのに、真琴の時間と明日香の時間には大きな隔たりがあるように感じた。子どもたちのせいだ。明日香はそう決めつけることにした。
「おかえり。ほら、沙耶香ちゃんと翔太君。ね、このお姉ちゃんが、明日香ちゃん。ね、わかった?」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介