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夏の扉

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 ポケットから怜はもうイグニッション・キーを取り出していた。
「ひまわり、持っててくれないかな。片手にひまわりじゃ運転できない。君が持っててよ」
 風が葉を揺らし、怜が陽と影の境界を行き来していた。鳴海はうなずいて一輪咲くひまわりを受け取った。命を絶たれたはずなのに、まだひまわりは生きていた。陽を浴びて、鳴海は『終わり』を見ることができなかった。それ以上に太陽がまぶしかったのだ。
「行きましょうか」
 運転席のドアを開け、怜は男に呼びかけた。男はアスファルトの上で腰に手をあて、伸びをしていた。意外に首が細かった。
「俺はいいよ。ここでさよならだ」
「え?」
 シートに乗り込みかけていた怜が返す。
「行かないんですか、いっしょに」
「ここから歩いていくさ。あんたらの邪魔をしちゃつまらないからな。森の中を歩くのも気持ちがよさそうだ」
「この先しばらく、何か食べさせてくれる店なんかありませんよ。何なら街まで乗せていきますよ」
 助手席側にまわった鳴海は、ドアを開けかねていた。道路の真ん中に立つ男は、スポットライトを浴びるように、ちょうど木陰と木陰のあいだ、陽射しの中に立っていた。その顔が陽を浴びて白い。
「遠慮しとくよ。来た道を戻るさ。海岸沿いをしばらくいくと、町があるみたいだ。今夜はそこで休むことにするよ」
「十キロ以上ある」
「わかってる。日が暮れるまでにつけばいいのさ。まだ日は高いし、このへんは物騒なこともないし、いいところさ。それに俺はまた海を見たくなってきた」
「さっき森が気持ちいいって言ったばかりじゃないですか」
「気持ちいいさ。森を抜けて、海を見るんだ。俺の荷物はそこに置いていってくれ。まだしばらくここにいるよ」
 言われても怜はすぐに男の荷物を道路に置きざりにする気にならなかった。だからドアに手をかけたまま、男を向いていた。ここから男と出会った海岸まで、十キロできくはずがない。トリップ・メーターの数値を覚えているわけではないが、いまから出発しても、夕方に到着できるかどうかも怪しい。
「乗らないんですか」
「ガソリンの匂いにやられたよ。はじめてなんだ。ガソリン・エンジンの車に乗ったのは。くさいしうるさいし、もうごめんだな」
 満面の笑みを浮かべて言い放つ男は、言葉とは反対に楽しそうだ。
「ふたり仲良く夏休みの絵日記でも描いてくれよ。描けたら俺に見せてくれ」
「住所も、そういえば僕はあんたの名前も知らない」
「俺もあんたらの名前も知らない。自己紹介をしようか」
 オレンジ色のセンターラインを、平均台の上を頼りなく歩くように、男は一歩、一歩、近づいてくる。
「俺のことは、そうだな、どんな名前がいい?」
 はぐらかすのがつくづく好きな男だ。怜はけれど、たしかにこの男に固有名詞は似合わないように思えた。どんな名前でもいい。
「僕は、白石、怜」
 先に名乗ってしまおう。そして男の出方を見よう。それでも本名を名乗るとは思えなかったけれど。
「……俺は、カワサキだ。カワサキ、ユウ」
 陽に目を細め、片足に重心を置いて、男はまるで他人の名前を言うように、名乗った。
「べつに川崎生まれじゃない。そういう名前なんだ」
 怜に追及されるのを見越したのか、男は首筋を軽くかきながら言った。
「わたしは、綾瀬、鳴海」
 両手にひまわりを持った鳴海が、名乗る。
「神奈川生まれなのかい? いや、こっちの話さ、なんでもないよ。それにしても、てっきり苗字だと思ってた」
 影から影へ、飛び石を渡る男。ステップが軽い。
「ナルミさん、なんて呼んでるからさ。この環境調査員さんがよ」
 ドアに手をかけたまま、怜は苦笑していた。自分も最初は「ナルミ」が苗字だと思っていた。
「こんなところで自己紹介なんてね。おかしなもんだ。べつに名前なんてどうでもよかった」
 ふたりのすぐそばまで戻った男が、歌うようにつぶやく。
「どうでもいい。……さあ、俺の荷物を出してくれ。歩いていく。さっさと出ないと、陽が暮れる」
 怜はドアを開け、後部座席の男の荷物に腕を伸ばす。重い。見た目よりずいぶん。
「重いだろう。俺の思い出がつまってるのさ。だから重い」
「爆弾でも入ってるんじゃないですか?」
「ある意味、爆弾かもな。前触れもなく、思い出っていうのはよみがえってくるのさ。どかんとね。爆弾だよ。……重いな、われながら。ありがとう」
 カバンを肩に引っかけ、くいこんだストラップに顔をしかめ、唇の端を持ち上げて男は手をふった。さよならだ。
「海沿いを行くよ。町がまだ残っているんだろう?」
「もうほとんど残ってないですよ。衛星写真でも見てみますか?」
「そんなものを持ってるのか。さすがは<機構>の一員だけある」
「地図ですよ。衛星写真から起こした」
「帰り道がわからなくなるだろう。いらないよ。道があれば俺は歩いていける。テントだって持ってるんだ。気楽なもんさ」
「自分で言いますかね」
「気楽だからさ」
 言うとさっさと男は歩きはじめた。彼によけいな動作はない。けれど無駄なことを全力でこなし、流れる汗をそのままにしておくようなばかばかしさも内包しているような、男は最後まで飄々としていた。怜は開けたドアに手をかけたまま、鳴海はひまわりを持ったまま、来た道を引き返していく男を見送っていた。もう少しここに残ると言ってから五分もたっていないのに、男は森の道を進んでいく。背中が隠れるほどの荷物も軽そうに、男の後姿が木漏れ日に揺れる。
「行っちゃった」
 口を開いたのは鳴海だった。
「ひまわりか」
 彼女の手にある二本のひまわり。大きさも色もほとんどいっしょ。彼の目にこのひまわりがどう映っていたのか、ふたりはわからない。色彩のない世界で、男はすべてを想像しながら生きていた。色を自ら作り出しているにちがいない。
「行こうか」
 怜は車にもぐりこんだ。シートに腰かけ、イグニッション・キーをひねる。たやすく始動したエンジンがけたたましい。一瞬セミの合唱が止まる。ほんの、一瞬。鳴海はひまわりを折らないよう気遣いつつ助手席に乗り込んだ。
「後ろの席に置いたら?」
 怜が言っても、鳴海は首を振った。
「傷んじゃうから」
 両手で包みこむように茎を持ち、花びらが窓やダッシュボードに触れないよう気遣いながら。
「夏の思い出だそうだよ」
 車をスタートさせ、ゆるゆると動き出した車内で、怜はつぶやいた。平淡な言い方だった。
「絵日記か。変わってる」
「描いてみれば?」
「僕が、絵日記を?」
「宿題」
 前を向いたまま抑揚もなく言った鳴海に、怜は吹きだした。
「宿題か。そうだね、宿題だ。夏休みの」
 ステアリングを握りつつ横顔をうかがうと、鳴海の頬が緩んでいた。伏し目がちな睫毛がかすかに震えていた。視線は二本のひまわりを向いていた。
「宿題か」
 陽を浴びたシートが人肌のように暖かい。エアコンがまだ効かない。怜は窓を全開にした。森の匂いが飛び込んでくる。排気音に負けないセミの声とともに。
「鳴海さんにも、夏休みの思い出なんて、あるのかい」
 クラッチをつないだだけ、アイドリングで前進。男の背中が見える。歩幅のリズムを刻んで。
「……。ないわ」
「ない?」
「白石さんには、あるの?」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介