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夏の扉

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 戻ろう。両手にグラスを持ち、こぼさないようそっと給湯室を出る。出たところで読書青年とすれ違った。小脇にハードカバーの四六版を抱え、彼に表情はない。彼は明日香が入所したときにはもうすでに読書青年だった。<施設>には小さな図書室があるが、行ったことはない。大切な天文年鑑と理科年表は、明日香の私物だ。最新版が図書室に行けば手に入るかも知れないと考えたことはあったが、一階のずっと奥、職員宿舎近くにある図書室までは、なんとなく足が向かない。
 読書青年の足音が角を曲がっていった。彼の自室がどこにあるのか、なんとなくは知っていたが、やはりくわしいことはわからない。希薄だ。あらためて感じた。ここの人間関係は限りなく希薄で、ドライだ。
 自分と真琴、鳴海の関係が特殊なのかも知れない。それにしたって、明日香と真琴、そして鳴海が完全にうちとけているとはとうてい思えない。さきほど真琴はもう三人が旧知の友人どうしのような言い方をしたが、それは誤解だ。間違いなく。とりわけ鳴海は距離を隔てた向こう側にいるように思えた。透明な壁の向こう側だ。
 おそらく心の奥、それもあんがい表層に近い奥では、たがいを信頼していない。それがここの空気だった。
 手のひらの中でもうグラスはうっすらと汗をかきはじめていた。
 戻ろうか。真琴が待ってる。
 自分にとって真琴は、やはり友人なのかもしれなかった。
 ひとりでは、生きていけない。たぶん。
 意固地にならず、自分も真琴がすすめるレモネードをグラスに注げばよかったと、一瞬ではあったが明日香は後悔した。その後悔を自嘲で打ち消して、明日香は談話室へと戻る。廊下の天井で、エアコンが稼動していた。
 廊下は一直線、つきあたりの壁がずっと遠くに見えた。実際の距離はさほどもないのかも知れない。ただもう明日香は何年も外の空気を吸っていない。中庭に出たことはあっても、外出をしたことがない。面会もめったになく、あったとしても談話室で両親と差し向かいになって、まるで裁判の被告席に座らされたような気分で短い時間を数えるだけだ。明日香はもう、外がどんな世界だったのか、感覚的に覚えていなかった。理屈ではわかっているのだけれど。
 その外の世界に、いま鳴海はいる。<施設>の中から完全に彼女の存在が消えた。彼が、連れて行ってしまったのだ。

 丘を三人で下った。先頭は怜、続いて男、最後尾に鳴海。登るときはひまわりと風車、そして空しか見えなかった。帰り道はちがう。正面に平野が一望できた。背の高いひまわりにはさまれた小道と、乾いた土。前を行く男が不意に立ち止まる。
「どうしたんです」
 途絶えた足音に気づいた怜も立ち止まる。男はにやりと笑ってポケットからナイフを取り出した。怜はかすかに身構える気配を発したが、手を腰にまわりしたりはしなかった。
「護身用だよ、俺もね」
 男は笑顔のままで一本のひまわりに手を伸ばした。
「これがいいな」
 すばやくナイフを茎に当てると、花弁のすぐ下からひまわりを切り取った。
「どうするんです」
 怜の問いに、たったいま摘んだばかりの花を下げ、さあね、とでも言うように首を振った。
「あげようか」
 男は鳴海にひまわりを差しだした。大きく、たおやかで、黄色がまぶしい。
「放射性廃棄物はいらないか」
 笑顔はそう、差しだされたひまわりに似ていた。考えれば、三人は自己紹介もしていない。男をどう呼べばいいのか、鳴海は知らない。もちろん、男も鳴海の名を知らない。怜の名も知らない。
「ありがとう……」
 鳴海は差しだされたひまわりを受け取った。
「安心しなよ、放射能なんてたかが知れてる。俺が住んでいた街に比べれば、ここの汚染なんて取るに足らないよ。そうだろう、環境調査員さんよ」
 怜は答えに窮しているようだった。鳴海には受け取ったこの大輪が、目にも見えない毒をたくわえているようにはとうてい見えなかった。
「君みたいなかわいい女の子に手渡すのがひまわりとはね、俺もデリカシーがない」
 言いながら男はまたべつの一本にナイフを当て、新たなひまわりを摘んだ。
「環境調査員さんも欲しいか?」
 男は答えも聞かずに、切り取ったひまわりを半ば強引に怜に渡した。
「種はまだ食えないけど、部屋にでも飾ってくれよ。夏の思い出だ」
 歯を見せて男は笑った。笑顔に屈託はなく、言動に躊躇がなかった。
「夏の思い出、ね」
 受け取ったひまわりに視線を落として、怜は苦笑していた。重く、大きく、立派で、夏の太陽そのもののようなひまわり。
「帰ったら、絵日記でも描かなきゃならないですね」
 ひまわりに目を落としたまま、怜の声は笑をこらえていた。そう、男のように、屈託のない、笑いだった。
「絵日記か、そりゃいいや。いいアイディアだ」
 絵日記。鳴海はスケッチブックを広げたままの、<施設>の自室を思い出す。部屋を出たのがずっと昔のことのような気がして不思議だった。そんなに遠くへは来ていないのに。来ていないはずなのに。けれど、長年<施設>という閉鎖された場所で暮らしてきた鳴海に、きょうのドライブは旅行にも等しかった。目の前の男は、旅先でであった奇妙な旅人だ。いや、彼は実際に旅人なのだけれど、まるで小説の中の登場人物のようで、どこかしら現実感に乏しい。
「帰ったら、描いてみますよ。もっとも、絵なんてしばらく描いたこともないですけど」
「俺もだ。俺も三鷹の家に帰ったら、今回の旅の絵日記でも描いてみるさ、思い出しながらね」
「カメラも何も持ってきていないんですか」
「撮ったとして、どこで見る? あっちはこっち以上に電力事情が深刻でね。目で見て憶えるのがいちばん手っ取り早いのさ」
「それもそうかもしれませんね」
 ひまわりを手に、鳴海と、怜。手ぶらの男。だから、鳴海は訊いた。
「ひまわりは、いらないんですか?」
「なんだい?」
「自分の分の」
「俺の分か。カバンに挿して歩いてみるかい。ちょっと滑稽だな。いや、せっかくだけどやめておこう。じきに枯れてしまう。花瓶に挿しておくのならいいだろうが、ひまわりがかわいそうだ」
 男の言葉に、怜は鳴海を見た。鳴海も男の言葉に胸の奥がかすかに震えた。枯れていく、花。その光景が、ふっと浮かぶ。おぼろげに、しかしやがては明確なイメージとして。
「花は土の上で咲いているのがいちばんだからな」
「だったら」
 鳴海はイメージを払拭しようとするかのように、口を開いていた。
「どうして摘んでしまったんですか」
 言われて男は、首をかしげた。
「さあてね。君らに似合うと思ったのさ。夏の思い出さ。大事にするんだな」
 両手をひろげ、男は片目を閉じて鼻を鳴らした。
「行こう。俺はもう腹が減って死にそうだよ」
 男はナイフをしまうとさっさと歩き始めてしまった。ひまわりを手に鳴海と怜は顔を見合わせ、どちらともなく微笑んだ。
 ひまわり畑を抜けて森の中へ。セミの大合唱と樹の匂い。まだら模様の光と影を踏みながら、子どもが雨の日に水溜りを避けて飛ぶように、男がステップを踏む。そう言えば怜も、傘をくるくる肩にのせて遊ぶ子どものように、ひまわりをまわしながら歩を進めていた。やがて、道路脇に停めた怜の車が見えてくる。
「鳴海さん」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介