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夏の扉

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 明日香が前に入っていた施設では、燃料電池の余熱を利用した給湯システムで、それこそ湯水のごとくお湯を使えた。けれどここは、この<施設>では、電力がけっして潤沢とはいえない環境だから、エアコンの温度設定も高いし、消灯時間にはきっかり、廊下の照明はすべて、常夜灯を残して消えてしまう。事務室で職員が配電盤を管理しているから、入所者がかってに廊下の照明を入れることもできず、したがって消灯時間以後は薄ぼんやりと足元だけを照らす常夜灯を頼りに出歩くしかない。
 冷蔵庫を開けた。開けてから、明日香は真琴のグラスを用意していないことに気づいた。小さな食器棚が冷蔵庫の対面にすえつけられていた。マグカップ、グラス、湯のみ、茶碗。持ち主の性格、容姿、それらが伏せて並んだ食器にあらわれている気がした。明日香のカップはここにはない。もともと明日香は自分のカップを持っていない。せいぜいが歯磨き用のカップくらいのもので、コーヒーも飲まず、真琴のようにクラッシュ・アイス山盛りの氷水を飲む習慣もないから、食事時にプレートといっしょに登場する、<施設>の備品以外のグラスに触れたことがない。何年か前まで、一階のエントランスの公衆電話の横に自動販売機が置いてあったらしいが、外来もなく、入所者の誰も利用しなくなってしまったのでいつのまにか撤去されてしまった。ジュース好きの真琴はそれを聞いて残念がっていたが、「屋上直送」のフレッシュ・ジュースを飲みはじめてからは文句も聞かない。明日香がまったく「屋上産」の果物や野菜に積極的に触れようとしない理由を、真琴は訊いてこない。訊いてこないから話さない。話すつもりもなかった。
 老婦人のマグカップが手前から二列目に伏せてあった。見覚えのある白く大きなマグカップだ。きょうは彼女の姿を見ない。部屋にこもっているのだろうか。今までそんなことはなかった。いつだって食事は談話室でとっていたし、食事のあとは窓辺近くの椅子に座って、このマグカップにお茶を淹れて飲んでいた。白髪、くすんだ肌、それはすべて本物。前世紀の記憶そのもの。明日香も真琴も鳴海も、もちろん稲村も河東も、あの環境調査員も知らない、こんなに変わる以前の世界を生きてきた証拠。
 明日香は老婦人と面と向かってしゃべったことがあまりない。老婦人もまた、自発的にしゃべろうとしない入所者と会話をしない。だから、明日香は老婦人としゃべったことがほとんどない。けれど、姿はいつも見ていた。いなければ、そこだけぽっかりと空白ができたようで居心地が悪い。たとえば白い横顔がいつも物憂げな鳴海がいないきょうのように。
 冷凍室の扉を開けると、山奥に流れる滝のように、ひっそりと音もなく、霜が流れた。部屋の中は永遠の冬だ。電源を切れば……自分たちの世界ができあがる。氷が溶け、流れ出る。
 明日香は自分のグラスにクラッシュ・アイスをつぎ込んだ。とがった氷は研究室で見た石英や、そうでなければ透明な石炭。南極から持ち帰られたという、バスケットボール大の氷の単結晶を見たことがあるが、それに較べればここの氷は純度が低い。混ぜ物だらけだ、地下水を蒸留しているはずなのに。
 すべて物質は結晶化することによって安定を得る。かたく外界と遮断し、内にこもる。するとここの入所者たちは結晶か。それにしては美しさがない。美しくない結晶など、明日香は認めたくなかった。だから、きっとわたしたちは結晶じゃない。
 食器棚をのぞきこむ。真琴のマグカップを探していた。そして気づいた。真琴のマグカップを、明日香は記憶していない。そもそも、さっき真琴が使っていたグラスがいったいどこにあるのかが分からない。上手に整理整頓をする人間は、他人が想像もしない場所に何もかもしまいこむ。逆に不便だ。真琴がそんなに几帳面な性格だとは知らなかった。
 食器棚の中段には扉がついていた。開けてみる。見つけた。整然と並んだグラスは水晶の洞窟だ。手前のひとつがしっとりとまだ湿気を帯びていた。真琴のグラスだ。開け放したままの冷凍室から、クラッシュ・アイスをひと山。給湯器の電源が入っていないことをもういちど確認して、蛇口をひねる。
 水流。
 人差し指を水流に突っこんでみる。
 冷たいのかぬるいのか。冷たいはずがない。いまは、真夏だ。地下水を蒸留しているとはいえ、濾過・蒸留の過程で水は真夏の空気に触れる。温度を失っていく。
 クラッシュ・アイスでいっぱいのグラスに水流を注ぐ。小気味いい音をたて、氷が溶けていく。真琴のグラスを満たしてから、自分のグラス。そこで思い出した。
(じゃあ明日香ちゃん、わたし、レモネードね)
 苦笑をせいいっぱいもらして、明日香は真琴のグラスをいったんシンクに空けた。なに、クラッシュ・アイスはいくらでもある。水がいくらでもあるんだから、氷だっていくらでも作ればいいじゃない。
 冷蔵室の扉を開く。
 トマト・ジュースの赤。これは毒々しくて嫌い。
 オレンジ・ジュースの橙色。これは着色したみたい。
 野菜のミックスは富栄養湖を思い出す。
 ボトルに入った透明な液体は、ミネラル・ウォーター? 誰かの私物か。
 トマト、トマト、トマト、オレンジ、レモン、レモン、ハムの塊がひとつ。レモネードの瓶はいったいどこだ。
 すぐわかるところに入っていると真琴は言っていた。
 ミルクの瓶、ミルクの瓶。ときどき食糧配達のおばさんが<施設>にやってくる。ミルクやハム、干し肉に生肉。魚。おばさんは音のしない車に乗ってやってくる。それが普通。今朝の喧騒を思い出す。暴力的な排気音、怜。ガソリン・エンジンなど、大学でも見かけなかった。戦闘機の余剰部品で組み立てたパルス・ドップラー・レーダーよりも珍品だ。
 ミルクの瓶を取り出した。まだボトルには三分の二以上のミルクが詰まっている。明日香はあのおばちゃんが運んできた(とかってに決めつけた)食糧なら問題なく食べられた。もっとも、出所はどこだか知れない。作り手も作られる場所もはっきりわかるここの野菜や果物のほうが、実はよほど信頼できるのかも知れない。でも、明日香はあの子どもたちが嫌いだった。子どもたちが育てる野菜や果物はもっと嫌いだった。
 ミルクの瓶の陰に、ひとまわり細い瓶が入っていた。薄い黄色がかった液体。レモネードはこれかな?
 瓶の口を開けて真琴のグラスに注いだ。明日香は不覚にも、レモネードから香る果実の匂いを心地よいと感じた。レモンの匂い。胸がすくような、爽快な香り。瓶の中にはスライスレモンが浮いていた。
 飲んでみたいと一瞬でも思ってしまった自分を、明日香は許せなかった。わけもなくいらだった。子どもたちの邪気のない残酷な笑みが眼前にふと浮かび、明日香はすんでのところでレモネードの瓶を取り落とすところだった。
 わたしは、水でいい。
 溶けかかったクラッシュ・アイスに、蒸留水。それでいい。ピュア。
 レモネードの瓶を冷蔵庫に戻し、明日香はシンクに背を向けた。正面に窓。向こうは怜の車が去っていった道路、そして荒地、並ぶ送電塔に架空線はない。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介