夏の扉
男はもう丘の頂点にさしかかろうとしていた。怜はまだ五合目にも到達していない。鳴海はさらに遅れて、まだ畑の入り口から少し。羽虫の羽音がうるさい。風車がゆったりと回転していた。
「誰もいないんですね」
怜が男に向かって言った。声を張りあげるようにして。無言のひまわりの列を横目に。
「俺たちだけだ。いいじゃないか、貸切だ」
両手を空に突き上げて、男が叫ぶ。奇妙な光景だった。およそ花畑など似合いそうもないはずの彼の姿が、くっきり見えた。浮いているのではなく、ひとつの構図として。
森を抜けてどれくらい歩いたろうか、鳴海はそっと立ち止まり、ふりむいた。斜面は急ではなかったけれど、黒く繁る森は眼下にあった。道路はずっと深い森の中を走っていたから、丘陵を埋め尽くすこのひまわり畑には気づかなかった。それにしても、陽射しが強い。けれど風が流れていたから、暑くはなかった。見れば遠く、街がとろりとした熱気に沈み、ここから見ると海が広がってきているのがよくわかった。大雨が降ったあとの水溜りのように、でたらめな海岸線が平野を侵食していた。<施設>はどのあたりだろうか。鳴海は探したが、まるでわからなかった。
「鳴海さん、疲れた?」
怜の声。いつから立ち止まっていたのだろうか、ずいぶん先を歩いていたはずなのに、追いついてしまった。鳴海の数歩先に、目を細めて首筋をなでる怜がいた。
「だいじょうぶ」
「調査員やってたころは平気だったのに、僕は少しやられてしまったよ。暑いんだ」
額に汗が浮かび、怜は手の甲でそれをぬぐった。風がときおり強い潮の匂いを連れてくる。
「そんなに、暑い?」
足元に黒く落ちた影。鳴海は照りつける太陽が頼もしかった。
「暑いよ。痛いくらいだ、陽がね」
ひまわりが揺れる。いっせいに葉が擦れる音が丘いっぱいに漣のようだ。雲が白い。
「早く来いよ」
男が頂で手をふっていた。旧知の友人を呼ぶように。なれなれしさより、人懐っこい笑顔がひどく寂しげに鳴海には見えた。無頼を気取っているふうだった男は、きっと寂しくてしかたがなかったのだ。そんな気がした。半年も旅を続けているから? いや、たぶんそれはちがう。
「行きましょう」
怜は首筋をなでつつ、ふたたび歩きはじめた。頂までは、あともう少しだ。並ぶ風車はどれも大きい。どこかしら遠近感が狂っている畑の中で、白い風車はますます大きさがつかみかねた。まるで、不思議な夢の続きのようだ。一面のひまわり畑、濃密な夏空、見上げるほどの風車。現実感が乏しかった。夢でなければ、一枚のキャンバスに迷いこんでしまったのかも知れない。
やがて丘の頂上にたどりついたふたりをむかえた男に、先ほどまでの笑顔がなかった。
「どうかしました?」
無理にはしゃいで疲れてしまった子どものような顔。怜は彼の横顔に問うた。
「どうだい、ここは」
「こんなところがあるなんて、知りませんでしたよ」
男は小刻みにうなずき、ひとつ大きく息を吸い込んだ。
「ひまわり、ひまわり。いったい何万本咲いているのか、見当もつかない。それに、どうだい、この色」
目を細め、黄色に染まった丘全体を男は睥睨する。
「あんたらにどう見えているのか知らないけど」
「……きれい、ですよ」
「きれい、か」
怜の言に男は小声で応える。
「俺には見えないんだ」
鳴海ははっと男の目を探した。瞬きをほとんどしない男の目は、ガラス球にも似ていた。
「見えないって?」
怜が問うと、男はその場に座り込んでしまった。
「黄色いんだろう、ひまわりって花はさ」
「見たままじゃないですか」
「あんたは、俺が自分と同じようにこの畑を見ているって信じてる。そうだろう」
「見えてないんですか」
「見えてるさ。風車も、ひまわりも、海も、空も」
「だったら」
「俺はね、色弱なんだ。色がわからない。ものの濃淡しか感じられないんだ」
異様なほどに澄み切った男の目を、鳴海はのぞいていた。彼の横顔を。
「見えない……って、色が?」
「そうだ。環境調査員さんよ」
風車が風をつかんでゆっくりと回っている。
「空の色も海の色も、灰色でしかないんだ。もっとも俺は、灰色がどんな色なのかもわからないんだがね。でも、花の色は感じることができるよ。福島でこことおんなじようにひまわり畑を見たとき、たしかに俺はひまわりだと感じだ。一面、おそらく黄色で埋まっているんだろうと、感じることができた。空の色とも、樹の色とも、もちろん海の色ともぜんぜんちがう。これがひまわりの色なのかってね。でも、俺はあんたらが見えてるひまわりを同じようには見えていないんだ。だから、よく見ておくんだね。俺の分も」
鳴海は男の目をのぞくのをやめた。
「空と海が溶けるんだよ。俺の世界ではね。境目がはっきりしないんだ。ぼんやりとしていて、どこからどこまでが海なのか、どこからが空なのか。なんでも線を引きたがるんだな、人間ってさ。無理やり線を引こうとするから、道理が引っ込んじまうんだろうな。……環境調査員さんよ、火を貸してくれないか」
怜はだまってライターを渡す。澄んだ金属音を鳴らして点火、手のひらで風を避けながら。
「この色は何色だ?」
火を点けた煙草を深く喫って、まだ燃えつづけるライターを見つめて男はつぶやいた。
「わかるかい?」
丘の頂点に三人、回転を続ける風車、ひまわり畑には誰もいない。
「腹が減ったな。昨夜から何も食べてないんだ」
「何か食べに行きますか?」
怜も煙草を取り出した。点いたままのライターを男は差しだし、そしてそこで火を消した。風の音だけが残った。
「ひまわりの種はごめんだな。食べた気がしない」
「食べたことがあるんですか」
「あるさ。子どものころに。あれでなかなかうまいんだ」
「知ってますよ」
「まあいいさ。ひまわりの種以外だ。国道沿いに何か食わせてくれそうなところはなかったのかな?」
「三三七沿いには人っ子一人住んではいませんよ。江別まで出ればあるんだろうけど」
「遠いな。川を渡らなきゃならない。落ちてない橋を知ってるのか?」
「来た道を戻れば、一本、知ってますよ。通ってきたばかりだ」
「お嬢さんはもういいのかい、ひまわりは」
煙草をふかすふたりは本当に旧知の友人どうしに見えた。鳴海はどう応えればいいのか、しばし考えた。
「わたしも、お腹がすいたから」
そんな答えしか用意できなかった自分が、つまらない人間に思えた。
「よし、環境調査員さんよ、食い物を探しに行こう」
うってかわって、おどけた調子で立ち上がり、男は煙草を消してポケットに入れた。
給湯室のシンクは鏡のように磨き上げられていた。二畳ほどの広さで扉はない。廊下に面しているわけだから窓からの光を背に受け、蛍光灯をつけないと手元が暗い。冷蔵庫がサーモスタットを起動させていたから、低いうなりが終始耳を打った。給湯器を真夏のいま利用しようと思う入所者は少ないにちがいない。だからだろう、電源が入っていなかった。



