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夏の扉

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 彼女はうつむき気味に歩いたかと思えば、はっと顔を上げ、周囲に視線をめぐらす。落とし物を探っているようにも見える。
 あの子だ。
 初めてここで煙草を喫ったとき、怜に話しかけてきた彼女だ。春の陽射しを浴びているのに、顔は病的なほどに白い。グレーのプリーツスカートに、紺色のカーディガンを着ていた。一見、ここの看護婦にも見える。彼女はなにか思案しているように立ち止まり、探し物をたどるように歩んだ。
 怜は席を立ち、窓辺に向かう。窓は大きく、これを開ければ中庭に出ることができる。窓枠に手をかけると、あっさりと開いた。引き戸になっている。停滞していた空気が、一気に流れ出す。待合室の煙った匂いが、中庭に吹き出した。怜は芝生に降りる。上等な絨毯もかなわない、柔らかな踏み心地だった。
 少女は侵入者に気づいたようだ。ふと立ち止まって、怜を向いた。少女は怜を向き、小さく頭を下げた。彼を憶えていたからか、それとも来客に向けてか。怜も会釈を返したが、第二歩が踏み出せない。少女が住人の別世界に、怜は間違って踏み込んでしまった、そんな気分だった。上空でプロペラが回転する風切音が聞こえる。その音が彼女の鼓動にも思われた。
 しばらく二人は向かい合ったまま動かなかった。均衡を破ったのは少女の方で、涼しげな目を細め、ふたたび探し物をはじめたからだ。怜は中庭に立ち入ったことを後悔した。風切音は次第に自分の鼓動とシンクロしはじめた。声をかけるなんて、最大の禁忌にも感じられた。少女は怜などおかまいなく、一歩一歩、中庭を横切っていく。時折吹き抜ける潮風に、彼女の黒髪が舞った。二人の距離は、次第にひらいていく。
「鳴海さん」
 怜は声にびくりと身体を震わせた。反射的に、声の主を探す。見ると、診察室近くの窓から稲村が顔を出していた。彼の方角には、怜と少女の二人だけ。少女は立ち止まり、稲村を向いていた。なるみ、それが彼女の名か。だが、姓か名かはっきりしない。それでもいい、彼女は「なるみ」という名を持った人間だったのだ。怜は彼女の存在を確認した気分で、妙にほっとしていた。おかしな気分だった。
「時間ですよ」
 稲村は怜と対質するときと同じ、柔和な表情と声で、少女を向いていた。彼は誰に対しても、スタンスは一緒らしい。
「……」
 鳴海と呼ばれた少女はなにか答えたようだった。しかし怜には聞きとれなかった。あの日の少女の声と、ぎこちなかった笑顔を反芻してみる。意外なほどにあどけなかった瞳を。
 少女はやはり地雷原を歩くように、一歩一歩確かめながら、稲村のすぐ横に開いたドアに向かった。怜はずっと目で追っていた。彼に気づいた稲村が笑顔で軽く手を振る。すると、少女もこちらを向き、怜に向かって手を振った。顔は……あの日と同じ、あどけない微笑みだった。怜も二人に手を振った。少女以上にぎこちない微笑みをそえて。稲村が手を下ろし、続いて少女が手を下ろす。そのとき、一瞬少女の顔が能面のように凍った。二、三度の瞬き。そして背を向け、廊下に消えた。
 そうか、次は彼女の診察か。
 稲村も背を向け、中庭よりははるかに暗い廊下へと消えた。怜だけが日だまりの中に残され、突っ立っていた。手を振ったまま、腕を上げたままで。プロペラが回転する風切音が、怜の耳に蘇った。


   六、窓

 待合室北側の壁には、入院患者の手によるものだろうか、達者な油彩、そして水彩画が飾られている。あわせて四点。ひとつの絵は、こんな具合だ。
 <施設>の屋上から描いたのだろうか、市の西側についたてのようにそびえる山……手稲山という名前だ……が遠景に配置され、鮮やかな草の海とポプラ並木が画面を横切っていた。赤い屋根に煉瓦積み、つくしのようなかたちののサイロ、緑の屋根に板張りの納屋、青い屋根に白壁の母屋。時間を五十年はさかのぼったかのような、怜には記憶のない懐かしい風景だ。
 もう一枚はこう。一直線に消失点へと伸びる水路が、みごとな遠近法で描かれているのがまず目を引く。細波が立ち、水は澄んでいる。川縁を六車線の自動車道が随伴し、色とりどりの自動車が走る。これは春だ。失われた春。まだ季節のくぎりがしっかりしていたあの頃の春。歩道を行く人々はみな後ろ姿だったが、背中がすべて、季節の到来をいっぱいにはらんで雄弁だ。桜の木が画面の隅々にうかがえる。流れる雲だけは、今と変わらない。
 あとの二点は水彩だ。
 怜は水彩画は淡いタッチが身の上だと思っていた。しかし、ここに掲げられている二点は、いずれも目の覚めるような色使いで、夕焼けが近い街の姿と、真冬の海辺を描いているのだ。最初はリトグラフかと思った。画材が違うのか、作者自身の心象スケッチか。右隅の鉛筆によるサインはもう読み取れない。相当の時間をへているに違いない。壁の四つの額縁は、それが窓枠となり、向こうに広がるのは失われたイメージ。後ろ向きの感傷ではなく、今そこに存在している、確固たるリアリティ。怜は壁際に立ったまま、瞬きすら忘れて四つの窓を行ったり来たりした。
 廊下の向こうから、稲村の声がとぎれとぎれに届く。鳴海という白い肌の少女がきっと、視界の隅にタンポポの花束をとらえつつ、まるで前世紀からやって来たかのように懐かしい匂いのする医師と対質しているのだ。怜は四つの窓から視線を外し、廊下の曲がり角に向いた。
 彼女を待っているわけではない。待合室南側の壁に貼られたLRT「市電花川線」の時刻表は、あと四十分以上電車が来ないことを教えてくれた。だから待っていた。怜の知る日常は、<施設>が横たわる時間の五十年後に位置している。電車は時間と空間をつなぐ奇妙な移動手段に思われた。
 怜はズボンのポケットに両手をつっこみ、中庭を向いた。窓には徐々に日が射し込んでいる。時刻は正午に近い。空腹を感じないわけではなかったが、怜は食べることに執着がなかった。だから毎朝ミルクとシリアルで満足できる。調査員時代は支給されたレーションばかりを食べていた。悪化した食糧事情に合わせて、怜のうかがい知ることのできない複雑な技術で栽培された植物と、神の手を借りて造りかえられた動物たちの肉で合成された、可もなく不可もない味の食糧だ。現在街で手に入る食糧で、何らかの人の手が入っていない物などは売られていない。社会が変化する坂道に合わせ、この国の人口もフェードアウトするように減りつづけている。だから目だった食糧危機は訪れていない。しかし、<施設>が身を置く時代の食糧は、望んでも手に入らなくなった。怜は、ここの人々がどんな食事をしているのか、久々に感じる空腹感とともに気にかかった。ただの自分の思い込みで、ふだん怜が口にしているものとほとんど変わらない食事をしているのかもしれない。いやまっとうに考えればそれしかない。それでも怜は、四つの窓の向こうで生活している人々の食卓と、<施設>で暮らす人々の食卓を結びつけずにはいられなかった。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介