夏の扉
「夜起きてても、することがないから」
「セルフ・チェック・シートは書いてる?」
「書いてないわ、そんなもの」
「河東先生、何も言わない?」
「言うよ。でも面倒だからさ。たまってるわ、三か月分くらい。あれ、まとめてぜんぶ出さなきゃならないのかな」
「できるわけないじゃない、そんなこと。憶えてないでしょう」
「憶えてない」
言うと真琴が上目遣いに笑った。この子はどうしてこういう目をするんだろう。
「暑いね」
真琴がささやいた。そのわりに汗もかいていなかった。氷水が効いているのだろうか。明日香は額に浮いた汗を手の甲でぬぐった。おかしな汗だ。談話室はエアコンで二四度に保たれているはずなのに。
「カーテン、決めてくれた?」
テーブルの上で指を組み、真琴の声はか細い。
「真琴が好きな柄って何だっけ。まさかペーズリーとかじゃないよね」
「カーテンだよ。格子柄とか、無地でしょう」
「色は?」
「わたし、青が好き」
「青か」
「うん」
「海の色だね」
「……そうだね」
明日香は喉に渇きを感じていた。やれやれ、真琴が伝染ってしまった。冷凍庫の中にたっぷりと氷が入っているはずだ。水を飲みに行くたびに、真琴が補充している。
「居間のカーテンだけでいいの? 二階の、真琴の部屋のカーテンは?」
「おんなじでいいよ」
「それじゃ、つまんないでしょ」
「緑がいいかな。壁紙は白だったよね」
「オフホワイト。アイボリーだっけ」
「アイボリーだよ。明日香ちゃんの部屋はどうだっけ」
「壁紙? 白よ、白」
「カーテンの色は?」
「ブラインドにしようかな」
「ブラインド、冬は寒いよ。カーテンのほうが暖かくていいよ」
「そうかな」
「そうだよ」
すっかり席を立つタイミングをはずしてしまった。考えれば考えるほど、水を飲みたくなってしまった。喉が渇いた。
「でも、いまからカーテン選んでもね。まだ建てる場所が決まったばっかりでさ」
なんだかきょうは気が乗らない。明日香はけれど、そのことを悟られないよう、さりげなく話を終わらせようとした。
「明日香ちゃん、具合でも悪いの」
一筋流れ落ちた汗をぬぐった明日香に、真琴が訊いた。顔をのぞきこむようにして。
「どうして」
「顔色が悪いから」
「どんな色してる?」
「頬っぺた、赤い」
「それって、顔色が悪いっていう?」
両手で頬をはさんでみた。熱い。風邪をひきはじめた夜のようだ。熱っぽい。
「悪いよ。かわいいけど」
「やめてよ」
「どうして? お化粧してるみたいな色だよ」
「わたしにかわいいなんて言わないでよ」
意図したより語気が強くなった。真琴はでも堪えた風でもなく、小さな手のひらを明日香の頬に伸ばした。
「冷たい」
真夏なのに、真琴の指が冷たかった。そう、氷水のように。
「水、飲む? 持ってくる?」
頬から手をはなし、真琴は子どもたちに話すような口調で訊いた。
「お願い。喉が渇いちゃった」
「わかった。待っててね」
にっこり微笑んだ真琴は席を立つ。明日香は真琴の背中を一瞥して、目を閉じ、また両手で頬をはさんだ。まだ、熱い。熱が出ているのだろうか。風邪でもひいたのだろうか。もし風邪だとしても、ここはまがりなりにも病院だ。医師だってふたりもいる。心配はしていなかった。どうせ、日々することはない。ベッドにもぐりこんでいるのも、ここで真琴と永遠に住むことのできない家を建てるのもかわりはない。けれどそう考えたとき、明日香はひどく寂しさを感じた。
どうしているだろうか。
明日香はずっと鳴海のことを考えていた。触れることもできないカーテンの話などは、きょうはどうでもよかった。真琴には悪いと思ったが、いつもいるはずの席に鳴海がいないことのほうが、気になった。もっとも、鳴海はいつでも談話室にいるわけでもないのに。
「はい」
目の前に氷を満載したグラスが置かれた。なみなみと水をたたえ、氷は澄んでいた。
「ありがとう」
グラスを持つ指が冷たい。明日香はすぐには飲まず、テーブルから少しだけグラスを浮かせて、指先が冷えるのを待った。グラスはもうくもりはじめていて、はたしてエアコンがあまり効いていないのだとわかった。
「飲まないの?」
「飲むよ。喉渇いてたから」
ひとくち。冷たい。痛いほど冷たい。心地いい。ふたくち目ですっと身体の中心が冷えていく。明日香の身体は熱を持っていた。水が一瞬熱を奪ってくれたが、やがて体温と同化していく。熱は冷めなかった。
「おいしい」
正直な感想。おいしかった。めったに氷水を飲みたいとは思わないのに。
「どうしていつも真琴が飲んでるのか、わかったわ」
「ん?」
「暑いもの。夏だもんね。いまは」
グラスにはまだ三分の二以上の水、そして融けきらない氷。水滴がグラスの表面を滑り、テーブルに落ちる。露点。
「あ、あたりまえじゃない。どうしたの、明日香ちゃん」
真琴はテーブルに落ちた雫を指で伸ばす。
「夏休みの記憶って、真琴、ある?」
グラスを顔の前にかかげ、ゆがんだレンズの向こうに真琴が見えない。
「夏休み」
「うん、そう。夏休み」
「夏休み、夏休み」
グラスの底から結露した水滴がこぼれていく。小さいころは、グラスや冬の窓にびっしりとつくこの雫が不思議でしかたがなかった。
「普段から学校行ってなかったもん、夏休みの思い出なんて、ない」
「初等課程のころは?」
「……憶えてない」
「うそォ」
「明日香ちゃんは?」
「ラジオばっかり聞いてたよ。部屋で」
「それはいまでしょ」
「変わってないのよ。昔もいまも。小さいころのことなんて、わたしも憶えてない。思い出をさ、ちゃんと作れるような幼少期をおくってたら、ここにいないと思うけどね。で、わたしが憶えている夏休みって、部屋でラジオをずっと聞いていたってこと。わたしの部屋からはね、空がよく見えた。雲、雲、雲。誰もどこへも連れて行ってくれなかったから、ひとりでラジオを聞いて、雲ばっかり見てた」
「寂しいね」
真琴は目を合わさず、抑揚もなく、言う。
「寂しいね。たしかに。ここで鳴海さんなら、雲の絵でスケッチブックを埋めちゃうんだろうけど」
明日香はそう言って笑ったつもりだった。けれど、真琴はいつものように笑顔で追随してはこなかった。
「昔、鳴海さん、わたしたちとうちとけてくれなかったころ、よく絵を描いてたよね」
目を伏せたまま、真琴が言う。
「うちとけてくれなかったころ?」
「うん。わたしも明日香ちゃんも、入所したのって時期が近かったから、ときどき会ったら話とかしてたけど、鳴海さん、わたしが入ったときにはもういたから、話しづらくて。談話室にもほとんど出てこなかったでしょう」
「そうだったっけ」
「明日香ちゃん、憶えてない?」
「クロルプロマジンのせいかな」
解けたばかりの氷水は痛いほどに冷たい。ひとくち。
「いまでもそうだけど、鳴海さん、よく中庭で絵を描いてた。晴れた日は。雨が降ってるときは、一日中部屋にこもってるみたいで、ぜんぜん出てこなくて。憶えてない?」
「いまとぜんぜん変わってないと思うけど」



