夏の扉
カモメが鳴いていた。海も鳴いていた。鳴る海、鳴海。わたしの名前。どんな思いで両親がこの名前をつけたのかはわからない。いまのいままでいちども海を見たことがなかったのに、鳴海は名前の中に海をたたえていた。けれどその海は見えなかった。はじめていま、わたしは海を見ている。
水平線がかすんでいた。遠い。怜の背中よりずっと遠い。手を伸ばしても届かない。水たまりなどにはとうてい思えない。広さを実感できないほどに、広い。
「これが、やっぱり海なんだな」
いつのまにか怜は立ち上がり、鳴海のすぐとなりにいた。彼の声は平淡に聞こえた。
「はじめて見るような気もするけど、ちがう。やっぱり見たことがあるよ」
鳴海も立った。軽くめまいがした。
「きっとこんなところから見るものじゃないんだろうな。けれど泳ぐ気にもならないしね」
「泳ぐ?」
「そう。昔はみんな泳いでいたのさ、夏にはね。どう、泳いでみる?」
鳴海も怜も、夏休みの海を知らない。懐かしい砂浜の光景を知らない。ふたりの頭上に、濃密な青空。そして水平線、草の緑。ここでこうして水平線をながめていた人間はどれくらいいるのだろう。鳴海には見えなかった。もう、終わってしまった世界だから。終わってしまったものの「終わり」は見えない。
「まだ、見てる? それとも、本当に泳いでみる?」
怜の声はあいかわらず平淡だった。落胆しているのか、納得しているのか、鳴海には判断しかねた。
「君を連れてきてよかったのかどうか。僕ひとりで来ればよかったのかな」
鳴海は返事をしなかった。どう応えていいのか、わからない。わからなければ、だまっているしかない。
「どう、湖とはちがう?」
「寂しいわ」
こんどは彼に届いただろう。鳴海は怜の横顔を向いて言った。
「寂しい、か。そうだね、寂しいね。夏休みだっていうのに、僕たちふたりだ。誰も海を見に来ようとしないんだな」
そう言って怜は下ってきた階段を、上の広場をあおいだ。もうひとり、いた。海を見に来た男が。あの男はまだ広場にいるのだろうか。
「砂浜って、もうないのね」
「このあたりにはね。僕が知っているかぎり、みんな沈んでしまった。もうずっと昔に。鳴海さんは、砂浜を見てみたかった?」
「わからない」
夢で見たことしかないから。
「戻ろうか、ここはたしかに寂しいよ。君じゃなくても」
踵を返した怜の靴の裏で、砂が鳴った。砂? ここが砂浜だというの? 鳴海はアスファルトを靴で擦ってみた。砂が浮いていた。
「砂……」
鳴海のつぶやきは、やはり怜には届かなかった。海岸を去ろうとして、鳴海は波が砕ける姿を見ていなかったことに気づいたが、怜はもう階段に足をのせていた。
四二、扉?
男はまだ電柱にもたれて広場にいた。鳴海と怜が上がってきても、声をかけようともせず首の骨を鳴らしていた。
のぼりの階段は傾斜がきつく、鳴海の頬を汗が流れた。男は涼しい顔をしてなにやら本を開いていた。薄汚れた表紙、表題は見えなかった。紙面に落とした視線はまぶしそうで、口には火のついていない煙草を一本。怜は男を一瞥したが、ライターを取り出そうとはしなかった。求められたら応じよう、そんな気分なのかもしれない。
不思議だった。海を見下ろす広場には三人しかいない。ほかには誰もいない。ぐるりと首をめぐらせても人影がない。遠く市街地がうっすら霞みでふたをしたように黒く見えるが、人の姿は見えない。遠すぎるのだ。
怜は男からややはなれた場所にベンチを見つけて座り、煙草を一本抜き出して火をつけた。怜のライターは大きな音がする。聞く人間が聞けば、一発でそれとわかる音をたてる。だから男が煙草をくわえたまま怜を向いたとき、鳴海は危うく声を出して笑うところだった。男がひどく物欲しそうな、お菓子をねだる子どものような顔をしたからだ。怜はひとくち喫ってから、
「どうぞ」
男を呼んだ。男は背を丸めた格好で電柱から離れ、ふたりのベンチに近づいた。
「悪いね、何度も」
「二度目ですよ」
怜はライターを男に放った。受け取った男は慣れた手つきで火を点けた。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか」
ふたりの前に立ちはだかるようにして、男は白い歯を見せた。
「べつに警戒なんかしてないですよ」
「あんたが鉄砲を持ってるのはいいとして、俺はこのとおり丸腰さ」
細い腰まわりを男は片手でたたいてみせた。鳴海は男ではなく怜の腰を確かめた。怜は苦笑を浮かべて右手を腰に伸ばし、銃を抜いた。
「おっと」
「こんなもの。僕はべつに持って歩くつもりはなかったんですけどね。知り合いがね、何かと物騒だっておどすものだから」
「たしかに物騒だな、あっちのほうはね」
「あっちのほう?」
「物騒な場所もあるってことさ。こっちは平和なもんだよ、苫小牧からこっち、口をきいた人間はあんたがたがはじめてだ。あとはもう、そうだな、千歳でキツネと遊んだくらいだよ」
鳴海は目の前の男が嬉々としてキツネと追いかけっこをしている様を思って、また笑いそうになった。
「ところであんたらはきょうだいかなにかかい?」
大事そうに煙草を喫いながら、男はしゃがんだ。鳴海は男のセリフに、いつかの砂浜の夢をまた、思い出す。
「きょうだい? そう見える?」
「似てないけどね。きょうだいなのかい、兄さん?」
「残念ながらちがいますよ、きょうだいじゃない。知り合いですよ」
怜は銃をもとの腰に戻し、かわりに銀色の筒状のものを取りだした。
「そうか、知り合いね。いいね、知り合いがいるっていうのは」
筒のふたを開け、怜はそこに火のついたままの煙草を入れ、そしてふたを閉じた。灰皿だ。
「あなたにはいないんですか。見たところとても人間嫌いには見えないですよ」
怜が言うと男は煙草をくわえたままで考えこむようなしぐさになった。表情がよく変わる。誰かに似ている、鳴海はそれが誰に似ているのか、思い出せない。
「知り合いはいる。いるけど、みんなばらばらだ。こんどいつ会えるのかもわからない。でも、次にいつ会えるのかもわからない知り合いって、知り合いっていうのかね?」
太陽が小さな雲に隠れた。広場だけが昏い。
「それでも知り合いじゃないですか? 相手がどこにいるのかを考えることができるんなら。見ず知らずの相手だったら、どこでなにをしていようが関係ないじゃないですか」
「それもそうだ」
根元まで喫った煙草を、男はまた器用に頭をつぶしてポケットに入れた。
「いい天気だ。北海道に来てから、雨に降られていないんだ。気持ちがいいよ。なにより湿気がないのがありがたい」
「あっちの夏は、厳しいですか」
「厳しいね。空気がまとわりつくんだ。全身にね。ただ立ってるだけで汗をかくよ。風がぬるいからね」
「どこまで行くんですか」
「さあね。このまま北へ向かって海を渡るかもしれないし、釧路のほうへ行ってみようかとも思うし。湿原はぜんぶ海の底だそうだね」
「らしいですね」
男はすっと立ち上がった。すると彼に合わせたように雲が晴れた。広場はまた光にあふれる。まぶしい。
「夏休みだっていうのに、寂しいもんだ」



