夏の扉
男は怜よりもいくつか年上だろう。落ちついていた。怜は腰に伸ばした手をいったんひっこめ、ポケットからライターを取りだした。
「ありがとう。いや、煙草は持ってる」
怜がさしだした煙草を押し返し、男は薄汚れたバッグから煙草を出して、くわえた。怜はいつものオイルライターのフリントを擦ってやった。
「灰皿がないんだな、ここには」
口ではそういいながらも、彼はうまそうに一息喫った。
「俺はついてる」
とがらせた口から煙を吹きだし、男は言う。
「ライターを持ってる人間にお目にかかったのは、函館以来だ」
「函館?」
「青森から貨物列車に便乗したのさ。もうすっかり街は沈んじまってたけどね。」
「向こうの人なんですか」
怜の警戒心が多少は和らいだのを、鳴海は感じた。同じ喫煙者だから? それはどうだろう。
「まあね」
男はじっくりじっくりと煙草を喫う。
「あんたは見たとこ、こっちでずっと暮らしてるって感じだね」
「ずっとね」
怜が応えると、男はじろりと鳴海を向く。鳴海はただうなづいただけ。
「こっちはいい。海がまともな色をしている」
ふたたび海を向いた男は、噛みしめるように言った。
「このあたりだけは」
怜が言う。並んだふたり、怜が男より頭半分背が高い。
「そうかね。あっちの海よりずっとまともさ」
「向こうは、どんな感じなんです?」
問いかける怜の声が低い。
「霞ヶ浦と東京湾がつながったからな。ひどいもんだ。もし首都まで行ってみたいのなら、ワクチンを忘れずに打っていったほうがいい。今の時季はね」
男の顔は日に焼けて黒かった。それでも最初に鳴海が感じた清々とした印象はかわらない。
「けれど、夜はきれいだよ。沈んだままでも灯りっていうのは灯るものなんだな。あれはいちどくらい見ておいても損はないね。暑さとまずい食い物を我慢できるのならね」
根元までしっかりと喫った煙草を、男は電柱にこすりつけて消し、そのまま吸殻はポケットにしまいこんだ。
「<機構>は」
「強制執行の話をしているのか。東京にはもう誰も住んじゃいないさ。みんな沈んじまったからな。少なくとも特別区には誰もいないことになってる。神奈川や千葉まで行けばいっぱいいるけどな。でもあっちにくらべたら、こっちはもう無人島だな。誰もいない。貨物にまぎれたりしてここまで来たけど、あんたらみたいな奴には会わなかったよ。いまどきただ、海を見に来る奴なんてね」
両手をポケットにつっこんだ男は、怜を見て眉を片方つりあげて笑った。
「なんでフェンスが破れているのを知っていたんです?」
怜が訊く。
「訊いたのさ。俺とおんなじようにぶらぶらしてる『渡り』の奴らにね」
「『渡り』?」
「おんなじ場所にとどまらないで、ふらふら歩き回ってる奴らのことさ」
ふうんと怜は鼻を鳴らして、目を細めた。
「あんたらはどうやってここまで来たんだ?」
男はこんどは鳴海に訊いた。鷹や鷲のような目が、鋭かった。
「自動車で」
「車で? あんたのか」
怜を向く。だまってうなずく怜。
「そりゃあめずらしい。さっき聞こえたのは、あんたの車の音か。ガソリン・エンジンか」
「……ポンコツだけどね」
ぼそりと怜はつぶやくと、ポケットに片手をつっこんだ。
「下りてみないのか、そこから海に出られるよ」
男はあごをしゃくって広場の端を指す。
「階段がある。いいかげん腐りかけてたから、気をつけるんだね。真ん中を歩くことだ」
地べたに置いたバッグに腰をおろし、男は目を閉じた。海風に髪がはねていた。
「行ってみよう」
怜は鳴海を呼んだ。
以前ここは公園か何かだったのかもしれない。階段は木製で、たしかに男の言葉どおり、いたるところがもう腐っていた。両側は木と見まがうほどに背の高い草。草いきれがむっとした。手すりまで腐りかけていたから、鳴海は両手でそっとバランスをとりながら階段を下りる。怜はリズムよく下っていくから、あんがい自分の要領が悪いだけかもしれない。彼の背中が遠くなる。それにしても、ちょっと暑い。海の匂いに、草の匂い、そして先ほどまで揺られた怜の車のガソリンの匂い。外は匂いにあふれていた。そんなことまで自分は忘れていた。それが驚きだった。
ざわざわと葉が揺れる音にクロス・フェードして潮騒が大きくなる。波の音だ。そう、外は音も雑多だ。いろいろな音が聞こえた。風切り音を数え、患者たちの吐息を聞き、稲村の声の調子をうかがう日々が何年も続いた。暗い部屋から光の中へいきなり背中を押されても、最初のうちは目がくらんで何も見えない。それに似ていた。まだ鳴海は耳に届く音すべてを処理しきれていなかった。ましてはじめて潮騒を聞く。やむことのない波の寄せ返しは、嵐の夜、ベッドの中で聞く雨音に近いような気がしたが、それよりずっと力強かった。
「海……」
鳴海は口に出して言ってみた。誰もいない波打ち際がすぐ足元に、階段の尽きるところにあった。そこは道路だったらしい。オレンジ色のセンターラインが見える。ガードロープの向こうがもう、海だった。
「国道だ」
ひびだらけのアスファルトを何度かつま先でつついて、怜が腕を組んだ。
「まだ沈んでいなかったんだな、ここは」
ここが、国道。遅れてアスファルトを踏みしめた鳴海は、かつてここを車が行き交っていた場所だとすぐには理解できなかった。路面はぬめりがある。海草のきれはしがぽつぽつと散らばっていた。
「潮の満ち干で沈むんだろうね」
海草の一枚を拾いあげた鳴海に怜が言う。
「どう?」
怜は両手をポケットにつっこんで、センターラインの上に立ち止まっていた。鳴海はしゃがみこんだ。陽が照りつけ、海が空気に溶けていく匂いが強い。制限速度を示す標識もまた錆だらけで、いつまでたっても一台の車もやってはこない。今はもう、夏だというのに。
「アンテナが見えるよ。ほら」
見ると水面にぽつぽつと、それはまるで枯れた細い枝のようだ。そうでなければ、できそこないのサンゴだろうか。
「アンテナ」
「家が建ってる。そこに」
ガードロープまで寄っていって、怜もしゃがみこんだ。
「暑いね」
波はガードロープのすぐ下で砕けていた。風が強い日なら、きっともう怜は波をかぶっていたにちがいない。
どこまでが陸だったんだろう。どこまでが海なんだろう。水の底に、まだ誰か住んでいるのかもしれない。水の音を聞きながら、鳴海はそんなことを考えていた。脈略はなかったが、そうしないと、今にも見えてきそうだった。
「寂しい」
ぽつりとつぶやいた鳴海に、怜は気づかなかった。足元で砕ける波の音が、鳴海を打ち消した。だから彼女の言葉は彼女だけのものだった。
「寂しい」
もういちど。怜の背中があいかわらず遠くに見える。外は<施設>の中よりもずっと寂しいところだ。誰もいない。誰もいないとは、こういうことなんだ。首筋に太陽が痛い。アスファルトの照り返しが暑い。海は青かった。何かを溶かしたような青さで、だから底に沈んでいる記憶が見えない。鳴海はそれでいいと思った。