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夏の扉

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 鳴海はしゃがみこみ、指先で砂をつまんでは放っていた。
「あ」
 と、彼女が小さく言ったのは、怜が強固なゲートを破壊する手立てを見つけられず、身の丈よりも高いフェンスをうらめしく見上げたときだった。
「どうしたの」
 怜が問うと、鳴海はフェンス沿いの砂地を指した。
「足跡があるわ」
「足跡?」
 鳴海に歩みより、彼女の指を追う。たしかに足跡がつづいていた。フェンス沿いに、茂みを左右によけながら。
「先客、かな」
 足跡は一列。ひとりだ。環境調査員は単独行動はない。もちろん軍の人間も同じ。すると考えられるのは、先客。自分たちのようにただ、海を見にきただけの誰か。海からの風は今は弱いが、このあたりに背の高い樹が一本もないのは、普段は空気の塊が海からどんどん押し寄せてくるからだ。そんな場所で足跡が数日も残るはずがない。
 この先に、誰かがいる。
 怜はゲートを指ではじいて、足跡の上に足をのせた。
「行くの?」
「フェンスがどこかで破れているかもしれないからね」
 まるで国境を越えようとしている亡命者のようだ。地雷がわりに空き缶が転がっていた。怜は後ろにつづく鳴海が、ガラス瓶を探しているような気がした。
 潮の匂いにすっかり鼻は慣れてしまい、今はただ、足跡を追う。歩幅が広い。歩くのになれた人間の歩調に思われた。鳴海はしっかりと怜の後をついてきている。彼女の呼吸が聞こえる。並んで歩けない。一定の距離をたもって、歩く。
「白石さん」
 後ろから鳴海が呼ぶ。
「なんだい」
「どうして、わたしを誘ったの」
 歩調はかえない。歩き続ける。
「さあ、どうしてだろう」
「どうして、わたしなの?」
 ふたりの足音と、草の葉が風にゆれるざわめき。そして潮騒。怜は意識しないうちに足元ばかりを気にしていた。
「それは、君がついてきたからだよ」
 一瞬鳴海は立ち止まる。
「誘われたから、来ただけ」
「西さんも芹沢さんも、行かないって言ったからね。でも鳴海さんは海を見たいと言った。僕も海を見たかった。海を見てみたい人間がふたりいる。だったらいっしょに行けばいい。そう思ったからだよ」
 足元の砂は浅い。思ったほど歩きづらくはない。怜は振り返る。少しはなれて鳴海は立ち止まったままだった。
「行こう」
 ベルトに下げた銃がきょうほど重いと感じたことはなかった。おいてくればよかった。鳴海は怜の銃に気がついているのだろうか。そもそも彼女は銃など見たことがあるのだろうか。
「暑いね」
 怜はシャツの裾で腰の銃を隠す。
「わたしは平気」
「行こう」
 ふたたび怜が言い、鳴海は続く。
 足跡はまだ伸びていた。目的地がはっきりわかっているような、自信ありげな足取りだ。
「さっき、君は夢の話をした。そうだよね、鳴海さん」
 前を向き、足跡を数えながら、怜。
「僕もときどき夢を見るんだ。いろいろと。けっこうよく憶えていてね。ひとつのストーリーがあったり、全然別な、もうひとつの日常だったり。いろいろね。鳴海さんが見るような夢とはちがうのかもしれないけど」
 怜の後ろを鳴海の足跡はしっかりとついてきている。
「夢の中には僕の部屋もある。決まった部屋ではないけれどね。部屋を出て、地下鉄に乗ったり、ぶらぶらと街を歩いたり、見たこともない街をね、それは夢が覚めてから気づくんだけど、僕は自分の街だと思っているんだ。そこでもうずっと暮らしているようなふりをして。おもしろいよね。絶対にいけない場所なんだ、そこは。僕は自分の夢の街に行ってみたいと思ったことがある。夢の街か、なんだかあいまいな言葉だね」
 虫が鳴いている。鳥が鳴いている。海が鳴いている。
「絶対に行けない場所、だけど行きたい場所。だいたい僕は夢のなかで、その街に住んでいるんだ。べつになんの感慨も湧かない。だって住んでいるんだからね。でも、目がさめると気づくんだ。あの街はどこにあるんだろうって」
 いつしかふたりの歩調が同調し、足音がひとつになっていた。
「そして、こうも考えた。僕の街には、海がないんだってね。そう、僕はその街に住んでいて、海を見に行ったことがないんだ。海のない街なんだね。現実の自分が住んでる街は、もう何十年か先には海の底になっているはずなのにね、奇妙だよ」
 足跡は茂みの向こうに消えていた。フェンスが足跡に沿うようにしてカーブしていた。海の音、風の音、草の音、ふたりの足音。
「目がさめた瞬間、僕の街も部屋もなにもかも、ぜんぶ消えてしまう。残ったのはやっぱり僕の街に部屋なんだけど、そこは本当によく知っている場所で、でも海が近いんだ。僕は街に住んでいていちども海を見ようなんて思わなかった。仕事で散々見てきたからね。なにも休みに出かけるような場所じゃないと思ってた。きっと<施設>に行かなければ永遠に見にこなかっただろうね、こんなところまで。だから、感謝してる。ほら」
 怜は指をさす。足跡はたやすくフェンスの向こうへ続いている。そこだけフェンスは破れ、人がひとり通れるくらいの穴になっていた。
「先客がやったのじゃなさそうだよ。切断面が錆びてる」
 不意の来客を親切に<機構>へ知らせる呼び鈴など、すべての海岸線に設置できるはずがない。ときにフェンスが破られるのは、めずらしいことではないのかもしれない。怜は金網をそう、まるでギターを弾くようにじゃらりとなでつけると、フェンスをくぐった。とまどいがちに鳴海もつづく。足跡はさらに砂地を下っていく。フェンスの向こうは海まで下りだ。水平線が見える。怜のポケットのなかでイグニッション・キーが鳴った。
「風が……重たい」
 フェンスをこえた鳴海が、ひとこと。
 足跡をたどってゆるい斜面を行く。獣道のような一筋の小道。鳴海は眼前の海に圧倒されていた。あまりにも、広い。広すぎて距離感がつかめない。手を伸ばせば冷たい水に触れられそうな気がした。想像していた海とはちがう。もちろん夢で見た砂浜ともちがう。怜の背中までが遠かった。
「あ」
 草地がひらけ、かたむいた電柱に架空線がからみつくちょっとした広場に出た。怜が短く声をもらしたのはけれど、ひらけた風景にではなく、そこに見つけた人影にだ。先客、足跡の主。
 足音に気がついたのか、先客はすっと視線をこちらに向けた。夏だというのに、彼は長袖だった。足元に草色の大きなバッグをひとつ。髪は肩にとどくほど長かったが、不思議な清潔感がただよっていた。
「やあ、こんなところで仲間と会えるとは思わなかったな」
 彼は親しげな笑みをふたりによこした。あまりに気さくなふるまいに、鳴海は彼を怜の知り合いだと思った。視線で怜に訊ねたが、返事はない。
「どこかで会いましたか」
 怜が言った。初対面なのだ、彼とは。
「さあね、会ってないね。でも、お仲間さ」
「仲間って」
「あんたらも海を見に来たんだろう。だったらお仲間さ」
 電柱にもたれて、男は海を向いた。
 怜はゆるりと彼に歩みよっていく。怜の右手が腰に伸び、シャツの下で何かを握っていた。
「火を貸してくれないかな」
 男は怜のそぶりを気にかける様子もなく、からりと言う。
「火?」
「犯罪的かな、煙草を喫いたくてね。けれどフリントが切れてしまった。もしライターを持っているならね」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介