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夏の扉

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 橋は長い。鳴海の横顔の向こうに、河口がある。だから、あの水平線は、もう海だ。けれど褐色に濁った水面を怜は海だとは思いたくなかった。だから鳴海にも言わなかった。もう海が近いのだと。
「白石さんが、いたわ」
「僕が? 鳴海さんの夢に?」
「そう。砂浜に」
「でも、それで海を見てみたくなったんじゃないでしょう?」
「さあ、わからない。でもわたしは、白石さんの話を聞いて、海を見てみたいと思った。見たことがないんだもの。それに、誰もいないんだったら、『終わり』もきっと見えないわ」
「『終わり』か。僕にはわからないんだ。その感覚がね」
「わからないほうがいいと思うわ。そのほうが」
「そう」
 橋を渡り終え、国道は湿地帯を行く。大潮のたびに海水が流れ込み、畑も全滅、捨てられた土地。等間隔につづく電柱は通電していない。ただ、遠景に並ぶ送電塔は整備の手が入っているようだ。一本として断線していなかった。北方の海岸線に発電所があっただろうか。
「でも僕は、『終わり』を見てきたよ。仕事でね。いつか鳴海さんが言っていた、誰もいなくなった部屋の話ね、僕はわかる気がするんだ。取り残されてしまった、その気持ちをね。いろいろな場所を歩いて、たとえば沈んだ街だとか、捨てられた部屋だとか、ぽつんと水面に顔を出してたぬいぐるみとかね。本当は誰かと一緒にいるはずの風景が、僕の目の前で終わっているんだ。ああ、こんな感覚なのかもしれないって、そう思ったんだ。ちがうかい?」
 交差点を折れ、北東へ。湿地が終わり、アスファルトの砂にわだちができていた。このあたりはまだ捨てられてはいないのだ。家がぽつぽつと建っていた。
「わからないわ。わからない」
 鳴海はゆるゆるとかぶりを振った。その顔が青ざめて見え、怜はエアコンの設定温度を上げた。寒いわけでも、ないだろうけど。
「きっと、僕にも『終わり』は『見えて』いるんだと思う。そんな気がする」
 正面を向いたまま怜が言う。鳴海はヘッドレストに頬をつけるようにして、目を閉じた。
「わからない」
 道はやがて林にさしかかった。ゆるやかな傾斜、丘を登る。怜はエアコンを止め、かわりに窓を開けた。樹の匂いがした。風の音が聞こえる。聞こえるものは聞こえ、見えるものは見えた。ちらりと助手席を見ると、閉じていた目を開け、鳴海は樹木を一本一本数えるようにして、首を動かしていた。
 怜が丘陵を行く道を選んだのは理由がある。かつての国道は海岸線を走っているから、もうずっと昔に水没してしまった。だから地図を信じて尾根道を行く。両側は緑濃い林。樹木のトンネルを車が行く。丘を登りはじめてから、怜も鳴海も口を閉ざした。やがて道が頂上にさしかかった。樹木がとだえる。トンネルを抜けた。目の前が光であふれる。怜は予感で胸が熱かった。
 青い地平……水平線だ。そう、海。濁りはなく、ただ青く空へ向かってとけこんでいる、海。怜はガスペダルから足を離した。惰性でなおも車は進む。
 海だ、海だ、海だ。仕事でいやというほど見てきたはずなのに、怜は喉の奥で絶叫していた。けれど口から出たのは驚くほどそっけない言葉だった。
「鳴海さん、海だよ」
 けれど声は震えていた。声は震えたが、内心の興奮とはうらはらに、ずいぶんと自分は冷静だ。ミラーに自分の左目だけが映りこんだ。瞳まで震えているような気がした。
 海に向かって伸びていた道は、すぐに右にカーブした。正面の水平線はぐぐっと左手に広がる。鳴海を見ると、彼女は身をのりだすようにして、夏空となめらかに溶けこんでいく水平線を見ているようだった。怜は窓を開けた。草の匂いがまず流れ込んできて、もうずいぶん走ったはずなのに、<施設>のあたりと同じ匂いがした。海と、草と、名前もわからない花。ここはたしかに<施設>と地続きの場所なのだ。鳴海はそのことをわかっているのだろうか。彼女は怜を向こうともせず、じっと水平線から目をはなさない。
 怜はギヤを入れなおし、ペダルを踏み込む。海岸線に下りられる場所を探さなければならない。ここから見ているだけでは、わざわざ彼女と自分を連れてきた意味がない。背後からぴったりと張りついてはなれない排気音が、やけに疎ましく感じられた。なるべく静かに。怜は回転計をちらりと見、優しくスロットルを開ける。
「海……?」
 排気音にまぎれそうな声。鳴海が口を開いたのは、点々と並ぶ電柱を十本も数えたころだった。わき道を探す怜は、彼女のセリフがいったい誰に向かって投げかけられたものなのか、一瞬判断できなかった。
「海だよ。あれが」
「青い」
 鳴海の肩にシートベルトが窮屈そうだ。潮の匂いはここまで届いているだろうか。残念ながら怜の鼻は、年代もののこの車の悪癖、不意をつく排気漏れのせいで、海を感ずることはできていない。
「波打ち際まで行ってみよう。道がなくってね」
 このあたりは風が強いからだろうか、アスファルトは荒れているが、街のように砂や火山灰はほとんど積もっていなかった。
 怜はクリップボードにはさんだ地図をめくる。道路地図ではないから、こまかなわき道までは網羅されていない。ただ調査に使われる地図だ。海岸線への道は載っているはずだ。錆だらけの速度標識がかたむいていた。架空線には草ともゴミともつかない何かが垂れ下がっていた。ここにもうち捨てられた家の残骸が見える。この先にはもう町はない。前世紀にいくつかあった漁村はみな、海中で漁礁になってしまった。いまは魚たちだけが住人だ。だから、町へ降りる道がない。
 天気がいい。海にも陸にも、雲は陰を落としていない。ぽつりと漂うのははぐれ雲。刻々と形を変えているのに、じっと見ていなければわからない。きょうは風も弱い。しばらく尾根道を走り、ようやく海へと下る小道にそれた。舗装されていない砂利道で、車はこきざみに揺れた。切通のようになった砂利道は左、右と屈曲し、そしてあっけなくゲートにぶつかってしまった。<機構>だ。
「やれやれ」
 怜はつぶやき、鳴海は黙ったまま。これ以上先には行けない。ただし、車では。怜はエンジンを止めた。
「どうしたの?」
「降りよう。ここから海岸線までは、すぐだよ」
 ベルトをはずし、怜は車を降りた。足元は砂だった。葉の長い草が茂っていた。遅れて鳴海が続く。
「砂……」
 怜に並んだ鳴海が、幾度か足踏みして砂の感触を確かめていた。
「砂浜はもうないけれど」
「そうなの?」
「僕の知るかぎりはね。行こう」
 フェンスは錆だらけで、立ち入りを制限する標識もまた、塗装がはがれて血を流したような錆の色が痛々しかった。ここが封鎖されたのはもうずいぶんと昔のようだ。
「なんて書いてあるのかしら」
 鳴海が標識の文字を指で追っていた。日本語と、キリル文字。
「どれも同じだよ。『これより先の立ち入りは制限されています』。大丈夫だよ、北海道の海岸線がいったい何百キロになるか考えればね。それに、忘れたのかい、僕は環境調査員だ」
「休職中のでしょう」
「関係ないよ」
 怜は錆だらけのゲートをつま先で軽く蹴った。きしみ、はがれ落ちる塗装、その向こうは海。
「きれい」
 怜がゲートと格闘を始めそうなのを横目に、鳴海は向こうの水平線を見つめていた。
「広い」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介