夏の扉
何も持たずに部屋を出た。スケッチブックも色鉛筆もライティングデスクに広げたまま、ドアを閉めた。また、わたしは戻ってくる。談話室で明日香と真琴が顔をつきあわせていた。ふたりの家はどこまでできたのだろう。鳴海に気づいた明日香が、ちらりとこちらを向いた。言葉はなかった。まるでいつもどおり、これから稲村のカウンセリングを受けに行く彼女を見送るように。真琴も振り向き、上目遣いに鳴海を見た。どうしてそんな顔をしているの? わたしはただ、海を見に行くだけ。おかしな理由、鳴海は可笑しくなった。老婦人の姿は談話室にはなく、指定席でページを繰る読書青年が見えた。階段を下りる。下りると煙草の匂いがした。待合室の長椅子に、彼の後姿があった。怜だ。はじめて彼を見かけたときのように、いやあのときは自分が声をかけるまで煙草は喫っていなかったけれど、あの日のようにすらりとした背中が見えた。足音に気づいたのか、ふと振り返った怜は髪が少し短くなっているような気がした。
「やあ」
指にはさんだ煙草から、ゆらりと煙をたなびかせて。
「こんにちは」
「こんにちは。……診察以外でここに来たのは、よく考えたらはじめてなんですよ」
その日の最初は、なぜか彼はいつも敬語だと、鳴海は煙草の煙を目で追いながら思った。
「道に迷うかと思ったんだけれど、まっすぐなんだ。そうだよね、線路をたどってくればいいんだから」
怜は煙草を消し、立ち上がる。
「いい天気だよ」
一階の蛍光灯はぜんぶ消灯されていた。光はすべて、外から。彼が来た、外から。
怜は鳴海を誘う。行こう、と。
エントランスを通した外は、色、色、色。草の緑、アスファルトのグレイ、空の青、名も知らない花の黄色、木の葉の深緑、青緑、そして太陽の白。わたしはこれから、外へ出る。扉を開けると、潮の匂いがした。これが、潮の匂い。直接まだ見たことがないのに、わたしはこの匂いを潮の匂いだと知っている。明日香に聞いたのか、真琴に聞いたのか、怜に聞いたのか、稲村に聞いたのか、それとも老婦人が語ったのだろうか。エントランスを出ると、白い自動車が停めてあった。どうぞ、と怜が助手席のドアを開ける。窓は全開、ガソリンの匂い。父の車はこんな匂いはしなかった。乗りこむのをためらう鳴海を横目に、怜はさっと運転席につき、エンジンをかけた。暴力的な音、振動、鳴海はとっさに耳をふさいでいた。
「乗ってよ」
怜が身をのりだして、鳴海を呼ぶ。ふさいだ耳に、彼の声はきちんと届いていた。
「車、はじめて? そんなわけないか」
「こんな音がする車は、はじめて」
「ああ、そうか。うるさいよね」
ようやく乗り込んだ鳴海に、怜はシートベルトをしめるように言った。ステアリングに軽く両手をのせて、怜はウィンドシールドの向こうに目を細めていた。鳴海はドアを閉め、シートに身をあずけた。<施設>を向くと、二階の窓に人影を見た。人影は鳴海に、手をふっていた。明日香だ。
「じゃあ、行くよ」
怜の左手がふたりの座席の真ん中に突っ立ったレバーを握り、操作する。ゴツン、と妙な音がして、車はゆっくり走り出した。鳴海は動き出した車の中から、まだ手を振っている二階の窓辺の明日香を見ていた。
さよならじゃないのに。
残念ながら、明日香の表情までは、鳴海の目には見えなかった。
怜がステアリングを大きく切る。車は<施設>を出、春の嵐の中、ふたりが転がった道路を行く。街へ向かう方向とは逆、海へ。高まるエンジン音、反対に<施設>が遠ざかっていく。鳴海は振り返らなかった。また、戻ってくるのだから。
四一、扉?
「音楽でも聴けたらよかったんだろうけど」
砂埃がひっきりなしに車内に飛び込むのを嫌って、窓を閉じ、今年はじめて、怜はエアコンのスイッチを入れた。鳴海の髪が風で乱れるのも気の毒だ。
「あいにくラジオもないんだ。あったとしても、国営放送くらいしか聞こえないけれどね」
鳴海は流れる風景をながめていた。車は<施設>を出たあと、荒れ放題のアスファルトを蹴りながらようやく国道に入った。通る車がほとんどないから、<機構>は道路補修を行わない。ひび、顔を出した雑草、かたむき錆だらけの標識。ところどころ橋が落ちている路線もあるから、衛星と航空機を使って作成された精度の高い地図なしには、遠出ができない。怜はクリップボードにあの地図をはさみ、ダッシュボードに載せていた。この道路は状態がいい。もうほとんど湿地と化した港湾地帯をかすめる道路で、途中の橋が無事ならあんがい早く市街地を抜けられる。
「外へ出たのはいつ以来なの?」
効きすぎのエアコン。パワーが有り余っている車だ。その分ガソリンを食うが。
「さあ、もう、憶えてないわ」
シートに座った鳴海は、<施設>にいるときよりもいくぶん小柄に見える。陽を浴びた髪は栗色がかっていた。それにしても色が白い。
「君の家は、どこにあるんだい?」
「<施設>」
「ちがうよ、昔住んでいたところさ」
「……丘の見えるところ」
「丘?」
「丘の向こうに森があって、塔が立ってたわ」
「原生林の近くだね。なんとなくわかるよ。まだ、誰か住んでいるの?」
「お父さんが、たぶん。どうして?」
「何年も<施設>を出たことがないんだったら、帰りたくなったりしないのかと思ったのさ」
ウィンドシールドの向こうはゆるいカーブ、右手に防風林、左手は湿地帯。少し向こうに高層住宅街。強制執行がかけられ、無人の廃墟になってしまった、市の北のはずれのニュータウン。
「戻れる場所は、<施設>だけだもの」
「そうか、そうだったね」
橋は無事だろうか。二ヶ月前の衛星写真では、石狩川にかかるこの橋はまだ健在のはずだ。沈黙したままの信号機を無視して、怜はガスペダルを緩めない。
「寒くない? ちょっとエアコンが効きすぎてる」
「大丈夫」
鳴海は半袖のブラウスだった。怜も半袖のシャツだが、露出した腕に陽射しが痛い。長袖を着てくるべきだった。紫外線が怖い。自分以上に、鳴海の白い肌が気になった。
「それにしても、よく、出てくる気になったね」
橋は無事だった。ゲートも検問もない。周囲数キロに、もう誰も住んでいない。軍や<機構>の車両も見えない。このまま海まで、走るんだ。
「どうして?」
「外に出るのが嫌いなのかと思っていたから。<施設>を出るのを怖がっていたんじゃないのかい?」
怜が言うと、鳴海はすぐには言葉を返さなかった。
橋の下で、川はよどんでいた。流れてはいない。両岸の湿地と同化して、もう川は湖か海の一部のように広い。ルームミラーに映る砂埃のコントレイル。
「よくわからない。どうして海を見てみたいと思ったのか、わからない。でも、わたし、夢を見た。海なんて見たことがないから、本当にそんな場所があるのかどうかぜんぜんわからないんだけど、その、海の夢を」
「海の夢?」
「お兄ちゃんがくれた絵。砂浜の絵」
「ああ」
「わたし、あの絵の風景の中にいた。歩いてた。本当の海を見たことはないけれど、写真だとか絵でだったら、見たことはあるの。でも、夢の中の海は、寂しかった。わたししかいなかった」