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夏の扉

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 彼との距離がはかれない。ずっと遠く、まるで地平のかなたに突っ立っているようにも見える。手を伸ばせば届きそうな気もする。海の匂いがする。
「海を、見たい?」
 彼は言った。鳴海は考えた。わたしはなにをしたいのだろう。もう何も見たくないはずなのに。だからここにいるのに。ここを出るつもりはないのに。明日香にもそう言ったのに。
「診察室の机の上、見ましたか?」
 鳴海は怜の質問には答えず、質問で返した。
「……ひまわり?」
「そう」
 怜は一歩、芝生に足をおろした。
「見たよ」
 彼の白いシャツがまぶしい。煙草の煙がすっと風に流されている。
「ガラスの瓶、きれいだった」
「ひまわりをいけてる、あの瓶だね」
「そう」
 怜が、もう一歩踏み出した。忘れていた世界が、見えてくる。彼は、ここの人間ではないのだ。
「君は、ひまわりはどうでもいいのかい」
「ひまわり?」
「瓶のことばかりを話すから」
 怜が近づいてくる。ステップを止めた鳴海は、その場に静止し続ける。
「ガラスの瓶なんて、あまり見たことがないから」
「海に行けばいくらでも落ちているさ。めずらしくもないよ」
 まだわたしは迷っている。外へ出ることに。迷っている? じゃあわたしは、ここを出ようとしているの?
「……ひまわり」
 鳴海はつぶやく。
「ひまわり?」
 怜は訊きかえす。
「ひまわりって……、どんな花?」
 まっすぐに怜を向いて、訊く。
「見たことがないのかい? 稲村先生の机にあった、あの花だよ」
「黄色い」
「そう、黄色い」
「わたし、見たことがないのかもしれない。ちがう、わたしが知っているひまわりは、あの花じゃないと思う」
「ちがう?」
「もっと、背が高くて、大きな」
「ああ。……そうか、君は見たことがあるんだ、ひまわりを。そうだよ、ひまわりは背が高くて、大きな花だ。漢字で書くように太陽を追ったりはしないけれどね」
「太陽を?」
「いや、なんでもないよ」
 たおやかに天を突くひまわり。怜の目によみがえるのは、碧空とまぶしいばかりの黄色い大輪だ。そう、稲村の机上にあったひまわりはにせものだ。いや、よくできたイミテーション。
「暑いね」
 怜は太陽をあおぐ。中庭は狭い。ここは、自分にとっては、少々狭い。鳴海は?
 鳴海はただ怜をまっすぐに見つめて、その場に立っていた。
「歌っていたのは、君だよね」
 怜は言った。なるべく笑顔で。微笑みかけてみたつもりだ。できるだけ。
「かもしれない」
 彼女は答えた。短く。瞬きもせず。
 出かけよう。
 怜は小声で呼びかけてみた。聞こえたかな? 聞こえなかったかもしれない。

 <施設>の北数キロまで海はせまってきていた。エントランスを一歩出れば、もう風向きに関係なく潮の匂いがした。けれどきょうはちがう。潮の匂いより強く、ガソリンの匂いがする。
その音が聞こえたとき、稲村は診察室にいた。診察室で楽譜をながめていた。まだ子どもたちが音楽室にいる。それに、昼間からピアノは弾けない。開けておいた窓から懐かしい音が聞こえたとき、稲村はいまがいったいいつなのか、時間の感覚が一瞬うせた。
 明日香は自室でラジオのアンテナを調節していた。このところ感度が悪い。ひょっとすると電波の出力じたいが弱くなっているのかもしれないが、それにしては気象通報の聞こえが悪い。もう等圧線を書くこともないだろうに、明日香は気象通報を聞き逃したことがない。遠くからガソリンエンジンの排気音が聞こえたとき、明日香はラジオの雑音だと思った。空電音にしてはおかしな音だと首をかしげつつ、スピーカーが定時ニュースを告げたとき、アンテナ調整はもうすっかり終わり、つまり雑音は空電音ではなく、外から聞こえているのだと気づいた。何の音だろう。
 真琴は音楽室で子どもたち相手にオルガンを弾いていた。いつもの曲、前世紀から歌われてきた曲。子どもたちの歌にあわせて真琴も歌った。だから排気音には気づかなかった。すっかり歌に没頭していた。子どもたちひとりひとりの顔を数えながら、真琴はオルガンを弾いていた。
 老婦人はベッドのなかにいた。このところ気分がすぐれない。せっかく季節がいれかわったのだから、中庭の芝を見下ろしながら、冷えた麦茶でも飲めばいい。ひどく具合が悪いわけではなかった。ただ、身体がどことなく重かった。この何日か、談話室にも顔を出していない。食事もケータリングしてもらった。食べ物はおいしい。だから、きっと心だ。また、心が弱っている。そんなとき、風に揺れるレースの向こうから、はるか昔におぼえのある音を聞いた。エンジン音。最後に聞いたのは、自分がここに、<施設>に送られてきたとき。もう、何年前だろう。ああ、きょうはこのままベッドのなかで、すこし昔に旅をしよう。
 鳴海は色鉛筆をライティングデスクにならべて、稲村からもらった外出許可をながめていた。絵を描こうと思った。明日香のポートレイト以来、絵を描いていない。<施設>にはもう描くものがない。描きたいものがない。色鉛筆の芯はみなとがったまま、長さはみんなそろっている。椅子に背をあずける。少し暑い。窓は開いている。なのに、暑い。また、夏がきた。カレンダーは待合室の壁。談話室にはない。ここのひとたちはカレンダーを持たない。日付けにとらわれた予定を持たないからだ。けれど、きょうはちがう。ただひとり、鳴海には約束があった。外出許可。一枚の薄っぺらな書類が、それだ。定型の文、稲村のサイン、自分のサイン。兄への手紙以外、字を書くことすら最近はない。そんな自分のサインは、なんだかゆがみ、かたむいて見えた。
 音が聞こえる。遠くから、ずっと遠くから、こちらに向けて。それは迎えだ。怜が来る。約束は、怜と。
 出かけよう。
 三日前、ステップを踏みながら鳴海は中庭にいた。口からはでたらめな旋律。青い芝の波に身を浸して、彼の言葉を聞いた。出かけよう。
 鳴海は彼のつぶやいた言葉をきちんと拾っていた。そして、うなずいた。
 海を見に行く。夢で見た、あの砂浜を思い出す。遠くに一直線、空と水がとけこんでいるあそこが水平線。けれど本物を知らない。すべては写真や絵や、兄や怜の口から語られた風景だ。
 見てみたい。
 鳴海ははじめて自分の気持ちに気づいた。外へ出てみたい。
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介