夏の扉
「ええ、音楽です。というより、旋律、かな」
「旋律?」
「そうです。稲村先生は聴こえないですか」
怜が言うと、稲村はいぶかしむように、それでも耳をかたむけた。怜が聴こえるという、音楽を探して。
「いつ、聴こえました?」
「今も、ずっと」
「今も?」
「ええ」
「おかしいな、わたしには聴こえない」
「それは変ですね。僕には聴こえる」
稲村はペンを置き、指を組んで向きなおった。しばしの、沈黙。
怜は考えていた。いま自分が聴こえると言った音楽が、稲村に感じられるはずがない。じつは怜自身、音楽を聴いたわけではない。けれど、適当な言葉が見つからなかった。それはまさしく音楽なのだ。
「やっぱり、わたしには聴こえないみたいだ。よかったら、どんな音楽が聴こえるのか、わたしに聞かせてほしい」
音を言葉で伝えることができるだろうか。まさしく自分が感じている旋律は、音だった。聞こえない音。かつて荒れた渚を仲間たちと歩き、聞こえない音を聴き、見えないものを見ていたころとは、ちがう。五感で感じるものではなかった。もっとずっと、直で身体に染みてくるもの。
「このあいだ、僕はギターを見に行ってきましたよ」
説明するかわりに、怜は言った。
「ギターを?」
「そうです。ここに最初にきたとき、話しましたよね。覚えてますか」
「それはね。よく覚えてますよ」
「ここに通うようになってから、自分でも不思議なんですけどね、弾いてみたいって思ったんです」
「なるほど。それは悪いことじゃない。いいじゃないですか」
稲村のペンが滑る。
「けれど、まだ、僕には弾くことができない。ひとりではね」
「どういう意味ですか?」
「さっきから聞こえている音楽ですよ」
怜は首をめぐらせ、森のなかで鳥のさえずりを聴き、居場所をさがすようなそぶりをみせた。
「稲村先生にも聞こえているはずだ。……僕は、海を見に行こうと思ってます」
すると稲村はなにか納得したように、いちどだけ深くうなずいた。
「海をね」
「ええ、海を」
診察室はエアコンが稼動していない。窓から吹きこみ、ドアから抜けていく風が、涼を運んでくる。そこに潮の匂いをかぎとろうとしたが、なぜか怜はガソリンの匂いをかいでいた。
「綾瀬さんは、元気ですか」
怜が言うと、稲村はペンを置いた。そして、姿勢を正して口を開いた。
「あなたが聞こえるという音楽、そうか、たしかに今日はわたしも聴いたような気がする」
ひときわ優しい涼風が、ひまわりの花弁をさっとなでていく。
「綾瀬さんがね、今朝、外出届がほしいと事務にかけあってきたそうです」
外出届。
「もちろんわたしの承認が必要な話だから、事務の女の子はまっすぐわたしの部屋に来ました。めずらしいことだ、ここのひとが外出届がほしいなんて、少なくともわたしはここ十年は聞いたことがない。だから、事務の女の子も驚いていました。そもそも外出届のね、書類のありかをその子は知らなかったんです」
怜は聞いていた。
「とりあえず書類を用意して、わたしは綾瀬さんの部屋に向かいました。綾瀬さん、ずいぶんと晴れ晴れとした顔をしていて、けれどね、少しだけ何かにおびえるような雰囲気もありました」
稲村は指をまた組み、言った。鳴海が外出届にサインするまでの経過だ。
「この子はこんな字を書くのかと、わたしは驚いた。考えてみれば、しばらく綾瀬さんの字を見たことがなかった。きれいな字でした。読みやすい、活字のようなね」
「許可したんですか」
「外出ですか。ことわる理由なんて、ない。ただ、まだ書類を受理はしていないんです。ただひとり、散歩に出るくらいなら書類だっていらないんです。でも、綾瀬さんは『海を見に行きたい』、そう言ったんです」
「海……」
「そう。あなたは知ってますね、今、海岸線は<機構>が厳重に管理している。気軽に出かけていけるような場所じゃない。だから、もし綾瀬さんが海を見に行きたいのなら、付添い人がいる。いなければ、許可は出せないんですよ」
そう言って稲村は、まっすぐに怜の目を射た。
「彼女は、なんて?」
「なにも。……いいですか、やはりわたしは以前言いました。綾瀬さんはいい子だ。すこし変わっているが、いい子だ。けれど、街から通ってきているあなたとは、もう根本的にちがう。深くかかわれば、おたがい、不幸になってしまうかもしれない。水と油は絶対に混ざらないんです。そのことをしっかりと覚えておいてほしいんです」
稲村が何を言いたいのか、怜にはわかる。
「でも、綾瀬さんが外出届を書いたということは、変化です。驚くべきね。……あなたのが聞こえるという音楽は、それでしょう。もしそうなら、わたしが聴いたかもしれない音楽と、あなたが聞こえるという音楽は、きっと同じ曲だ」
稲村も怜も、そしてだまった。耳を傾け、音を探す。
「海を見たがっている。綾瀬さんはね」
低く、つぶやくような、稲村の声。
「つれていけるのなら、あなたがいいのなら、いっしょに行くといい」
ふたりの耳に、旋律が届いていた。空気の震え、周波数の変化、それは、音楽。彼女が奏でる。
「綾瀬さんの歌なんて、わたしははじめて聞いた」
片肘をデスクにのせて、稲村はその向こうに中庭が広がっているはずの壁を、向いた。
「彼女が?」
「今朝からね。あの子が歌っているんです。ひとり」
ひまわりの花弁が揺れている。風に揺れているのか、きっと夏の旋律にのって、身体を揺らしているにちがいない。
旋律はつづいていた。
40、扉?
どうしたんだろう。
鳴海は中庭の芝生の上でステップを踏んでいた。
おかしな気分だった。風車の風切り音が一定のリズムを刻むとき、鳴海の身体が瞬間、宙に浮く。気分が高揚しているわけでもなく、けれど口からは音楽がこぼれた。小さい頃に聴いた覚えがあるような、まったく覚えがないような。
どうしたんだろう。
芝生はゆったりと起伏がついている。イチイの樹、ドロノキ、遠くにポプラ。波打つ緑の海を、鳴海は駆ける。
旋律もリズムも、かってに身体の奥から湧いてくる。唇がひとりでにメロディをか奏でていた。そのことに気づいたのは、談話室でひとり、空を眺めていたときだった。
歌っている、わたしが。わたしが?
真琴が音楽室でオルガンを弾いていても、知らない曲ばかりだった。知っている曲があっても、歌おうなんて気はまったくおきなかった。なのに。
いま、わたしは歌ってる。わたしの知らない歌を、歌っている。
転調、転調。悲しげに、明るく。奇妙なステージだ。つぶやくような、叫ぶような。
立ち止まる。待合室に、人影。
お兄ちゃん?
ちがう、片手に煙草。いつかの夢を思い出す。でもここは砂浜ではない。<施設>の中庭だ。鳴海のよく知っている場所だ。でも、そっと空を探ってみる。兄の乗った飛行機が飛んではいないかと。真っ白い航跡を曳いて、自分をおいて遠くへ向かう兄の姿を、そっと探した。
……白石さん。
鳴海はステップを踏むのをやめる。そこでようやくつづいていた旋律が止まった。
「鳴海さん」