夏の扉
スティール製の不愛想な机だが、花瓶(よく見るとそれはミルクの空き瓶だった)に生けられたタンポポの花束が、机上だけでなく部屋全体に血を通わせていた。机の上には、背を一見しただけでは内容が分からない分厚い本やキャリーファイル、クリア・ブックが整然と並べられ、その手前に柔和な表情の稲村が座る。白衣の下は、デニム地のボタンダウンだ。つくづく医者に見えそうで医者に見えない。レースのカーテンは半分ほど開けられていて、その向こうの枝は、つい数日前よりも賑やかになっていた。
「寝つきはよくなりましたか?」
稲村は左手でペンを持つ。患者を向いたままペンを走らせるのには都合がよさそうだ。
「ええ、そうですね。おかげさまで」
「血中濃度が安定してきたんでしょうね。いや、大丈夫、白石さんの薬はそんなに強くないから。ちゃんと飲みつづけてくださいよ。
……夢は、どうですか? 恐ろしい夢は、今でも見ることがありますか?」
夢。悪夢。恐い、夢。
「あまり、憶えていません。見ているのかもしれないし。いや、きっとなにか夢は見ているんだと思います。だけど、目が覚めてしまうと憶えていない」
「そうですか。
恐ろしい夢で目が覚めるといったことは、もう少なくなりましたか?」
夢、恐ろしい夢。言葉通りの恐怖ではなく、ぽつりひとり、捨てられた街に取り残された夢。世界にたったひとり、青い空と濁った水、それらに挟まれて行き場を失った自分。息苦しく、思考は焦燥、潮の匂いだけが強烈。そんな、悪夢。
「よくわかりません」
「わからない。……同じ夢を、まだ見るんですか。その、調査員時代の夢を、です」
怜はうつむき、考える。思い出すのではなく。稲村は身じろぎをせず、怜を待つ。
「さっきも言いました。見ているような気もするし、でも、憶えていない」
背筋を悪寒が駆け抜けた。どんでもなく広い空間に放り出された恐怖など、今ここで口に出しても誰も分かるまい。
「憶えていない。でも、見ている感じはするんですね」
「はい」
怜は音にならないかすれ声でうなずく。
「先生、夢って、誰でも見るものですよね」
「ええ、見ますよ。憶えていなくても、脳は夢を見ているのですね」
「ほかの動物たちも、人間以外のっていう意味ですけど、あいつらも見ているんでしょうか」
浅瀬でじっと動かない魚や、道路脇で寝そべる犬を思い出す。彼らの、夢を。夢を見ているなら、それは悪夢だろうか。彼らにとって、環境の激変は、悪夢なのだろうか。
「動物たちも見るのではないかと、それは通説にはなりつつあります。例えば、猿だとか犬だとかの哺乳類ですと、脳波を計るとね、人間が夢を見ているときと同じ反応が出るんですよ」
膝の上で指を組み、稲村が答える。
「眠っているあいだは、ずっと夢を見ているんですか?」
「眠りは、一定の周期があるんです。夢を見ているのは、眠りが浅いときだと考えられていて、ですから一度の睡眠で、人は何度か夢を見ているのだという説がありますよ」
「そうですか……」
では、自分は一晩に何度も悪夢を経験しているわけだ。そう考えると、気が滅入る。
「しかし、夢は目覚める直前の数分間に見ているのだという、そんな説もあるんです。まぁ、でも、一度眠れば、どんな人間でも夢を見るのは間違いないみたいですよ」
「はい」
稲村は指を解き、左手を机にのせて、そっとペンをとる。
「目が覚めたときの気分は、どうです?」
左手のペンがさり気なく動いている。視線は怜を向いたまま。紙面を見ずによく書けるものだ。
「あまり、前と変わらないかな」
「憂鬱さだとか、けだるさだとかは、まだ残っているみたいな感じですか」
「ううん、多少は」
「なるほど」
ガラス瓶のタンポポは、前と変わらず、しおれる様子もない。きっと誰かが新しい花を摘んでくるのだろう。
「わかりました。それじゃあ、今日はこのくらいにしておきましょうか。また火曜日にいらしてください。大丈夫ですよね?」
「来週ですね」
「ええ」
「わかりました」
稲村との面会は約一時間。ほとんど世間話に終始していた。怜はけっして話好きなタイプではなかった。それでも彼を前にすると、不思議に言葉が湧いてくる。ついついいらぬことまで口にしてしまうが、それが稲村のやり口なのだろうか。
椅子を立ち、稲村に一礼。するといつも彼も席を立ち、会釈を返してくれた。そして怜は窓に背を向け、ドアを開ける。診察室のドアはいつも開け放たれている。が、怜は入室すると、そのドアを後ろ手で閉める癖があった。これはどんなドアに対しても変わらない習慣で、怜は、ドアは開けるものというより閉めるものだという思いがあるのだった。だから診察室を出るとき、稲村はこんなことを言う。「開けたままでいいですよ」。入室した際は何も言わないのに、退室するときだけ、言い忘れた言葉を付け足すかのように、そっと言うのだ。
廊下に出る。後ろでは稲村がペンを走らせる音がしており、その音は、鷹揚な語り口とずいぶん対照的に思われた。廊下に出ると、なぜか怜はいまあとにしてきた部屋を振り返る。自分がいた場所、その確認。自分があとにした場所が、現在も確かに存在しているのかどうかが不安になる。見ると稲村は机に向かい、左手がせわしなく動いていた。
ドアの横には、大学の研究室によくあるような、部屋の主のネームと、在室か不在かを示すプレートが掲げられている。稲村創一。怜はプレートを読み、そこで担当医の名前を知った。いなむら、そういち。それが彼の名だ。
午前中、西を向いた待合室の窓には、あまり日が入らない。診察室の窓は南向きだから明るいが、廊下や待合室は、蛍光灯で照明されている。怜は初めて来たときに煙草を喫った、隅の椅子に腰掛けた。受付からはキーボードを叩く音が聞こえる。ここの女の子はキータッチが速い。まるで嵐の夜の雨だれだ。煙草を取り出し、いつものようにくわえて火を点ける。空調装置は作動しない。ここは、いまだ前世紀の香りが色濃い。上半身を深く背もたれにあずけ、さも旨そうに煙草をくゆらしてみる。背信的な行為が、ここでは無視される。かえってこういう場所の方が、禁煙できるかもしれない。
今日は静かだ。時折聞こえていたオルガンと歌声も、今日は聞こえない。そういえば、ここは入院設備があるのだろうか。子どもたちが通院するとして、自分は一度も電停で人と会っていない。駐車場に車の姿も見えないから、ここへ来る患者たちは公共交通機関を利用しているはずだ。その姿が見えないのだから、外来はひょっとすると自分だけということか。ここの二階は入院病棟というわけなのだろうか。
煙草は半分が灰になった。掃除が行き届いた院内から、中庭に視線を転じる。ちょっとした起伏のアレンジが効いた、美しい中庭だ。広葉樹よりも針葉樹が多い。葉が散らない、その事実は、ここの患者たちへの配慮だろうか。昔読んだ外国の短編小説を思い起こす。
と、中庭の奥手、ハルニレとエゾマツが並ぶあたりを、一人の少女が一歩一歩、足元を確かめるように歩いていた。怜にはそれが、地雷原を歩く外国の少女の姿に見えてしまい、灰を落としつつ苦笑した。なんて趣味の悪いイメージだろう。