夏の扉
怜は紅い果実をもとに戻し、シリアルばかりを入れたかごを手に、レジスターの列に並んだ。自分には、まだシリアルがお似合いだ。
エレベーターのシャフトから、箱が上昇する気配。怜はぼやけた焦点をふたたび旧市街の貧相な夜景に合わせる。停電はまだ復旧していないらしい。とたんになぜか煙草を喫いたくなった。背後に箱が上がってくる作動音を聞きながら、ポケットの鍵を探る。硬質な感触は、閉じた世界への鍵。鍵穴に突っ込み、開錠。怜が自室にもぐりこむのとその背後でエレベータの扉が開くのは、ほとんど一緒だった。
三九、Early Bird
曜日や時間の感覚が、<施設>ではことさらあいまいだった。休日も休暇もない。あえていうなら毎日が休日。けれどそう意識するものは一人もいなかった。一日ははてしなく間のびし、そこがあたかも事象の地平であるかのごとく、時計はゆっくりと秒針をすすめていく。枕もとのアラームクロックは、鳴海が<施設>に入所したとき、自宅から持ってきたものだ。さすがにネジ巻き式ではなかったけれど、電池一本で三年は時を刻み続けてくれる。
火曜日。
曜日の感覚がすっかり失せてしまった鳴海だが、きょうはカウンセリングの日。午後、階下に降りて稲村と対面する。そして、とりとめもない話をする。処方箋はあるのだろうか、すでに対処療法に過ぎないのではないだろうか。わたしは、治るのだろうか。けれど、鳴海は自分が病んでいるとの意識をじつは持ったことがなかった。気がつけば「終わり」が「見えて」いたのだから、それがいいことなのか悪いことなのか、判断する暇もなかった。
一秒、一秒。
目覚めたとき、レースのカーテンごしに、窓の向こう、繁ったイチイの樹が見えた。昨夜、ベッドにもぐりこむ前に鳴海は窓を開け放ち、星を数えていた。明日香は夏の星座がいよいよ見ごろになってきたと言い、こっそり鳴海に天文年鑑を貸してくれた。どこから手に入れたのか、最新版だった。これを読めば、一年過ごす日々、毎日空でいったいなにが起こっているのか、すべてわかると明日香は笑った。鳴海はとまどいながらも本を受け取ったが、残念だけれど読む気にはならなかった。だからせめて、ひざの上に年鑑をおいて、空を見上げることにしたのだ。
カシオペア、ポラリス、大熊座。それくらいは鳴海でもわかる。前世紀とくらべて格段に暗さを増した札幌の空は、星を探すには絶好の場所になった。周囲に高い山もなく、空気は澄んでいる。澄みすぎた空気は逆に、凶悪な紫外線が遠慮なく降り注いでいることの裏返しなのだけれど、理科にうとい鳴海でも、空がそのまま宇宙までつながっていることを容易に理解させてくれる曇りひとつない星空は、好きになれそうだった。
明日香を呼べば、天文学の講義が始まるのだろうか。
ベッドに腰かけ、両開きの窓を開け放ち、少々冷たい夜気を全身に浴び、月のない群青の空を、鳴海は時間を忘れて見上げていた。稲村のピアノが階下から流れてきたが、いつ鳴りだしていつ止んだのか、それすらわからなかった。鳴海の窓は、そのときたしかに外を向いていた。外に向かって開いていた。風力発電のプロペラは、振り子時計の振り子のようなスピードで、ゆったりと回転していた。風切り音がいつもよりずっと、優しかったからだ。今夜は海も優しい。
海。
火曜日は、カウンセリングの日。火曜日の稲村は、午後に鳴海、そして、午前にあの環境調査員、怜を担当している。そう、彼が来る。
あとわずかで日付が変わろうかという時間になっても、鳴海は星を数えていた。ポラリスを軸にぐるりとカシオペアが弧を描き、地上には街灯の明かり。水銀灯の緑色が、物悲しい。いよいよ鳴海は立ち上がり、窓辺から空をのぞきこんだ。時折空を横切っていく星は、人工衛星。そう明日香に教わった。この数週間、明日香と話をすることが多くなった。まるで転校することがきまったクラスメイトを惜しむように。
明日香や真琴とテーブルをはさんでいると、鳴海は彼女の知らない学校を想起する。ろくな記憶のない過去のアルバムに、クラスメイトとテーブルをはさんで食事をしたり、無駄話をしたページは存在していない。「見ない」ためには目をふさぐしかなかった。だから絵筆を持たなかった。記憶を綴じこむアルバムがあるならば、鳴海のそれはスケッチブックなのに。
あの夜、鳴海の描いたポートレイトを見、明日香は不思議な顔をしていた。まるで初対面の誰かと出会ったかのように。鳴海は思う。自分の顔を、わたしは描けるのだろうか、と。セルフ・ポートレイトは、いちども描いたことがなかった。興味がなかったのだ、自分のことに。外界とを遮断する扉をかたく閉ざし、鍵までかけて、窓も閉めきった部屋の中に閉じこもり、鳴海は一切を拒絶しようとしてきた。なのにたった一人のルーム・メイトである自分自身のことを、よく知らない。顔を、描けない。
目を覚ました鳴海は、そっと部屋を出た。どこか耳の奥底で風が吹きぬけるような音が聞こえているだけで、廊下は物音ひとつない。真琴のようにすり足気味に進み、談話室は誰もいなかった。妙に早く目を覚ましてしまった。いったい何時間眠ったのだろうか、時計をほとんど必要としないここでの生活で、時間の感覚すら失われかけている。たがらベッドに入った時刻を覚えていない。もちろん目を覚ました時刻も知らない。窓の外にうっすら靄がかかっていた。それで早朝だと思った。
談話室のドレープカーテンは閉じていて、昏かった。かすかな紙の匂いを鼻腔に感じながら、鳴海はカーテンを開けた。表には透明水彩でさっと塗ったような霞みの向こうに夏の空。一日がはじまる。いや、はじまっている。腰をおろした椅子はそう、老婦人の指定席だ。テーブルに頬杖をつき、もう頭が怖いくらいに覚醒していることを実感する。眠気をまったく感じなかった。おかしな気分だ。
きょうは、火曜日。
診察室の机には、どんな花が飾られているのだろうか。鳴海は知っていた。子どもたちの何人かが時折<施設>のスタッフの目を盗んで外出していることを。そして、あたかも戦利品のように、野に咲く花や草を摘んでくる。花瓶のかわりはどこかで拾ってきたらしいミルクの空き瓶。きっと砂や風でくすんでいただろうガラスを、子どもたちは磨き上げ、そして、そっと稲村の机に置く。
鳴海は晴れわたった夏空を、ガラスのこちら側からながめていた。そのときはじめて、この<施設>で暮らすようになってはじめて、外へ出てみたいと思った。嵐の中ではなく、碧空の下へ。
早朝の談話室に、穏やかな旋律が流れていた。鳴海は気がついていなかった。その音楽を奏でているのが自分なのだと。
旋律は、つづく。
怜はミルクの空き瓶に飾られた小ぶりなひまわりを見つめていた。どこで摘んできたんだろう、屋上の温室で育てているのだろうか。淡い色合いの診察室に、濃い黄色が鮮やかすぎる。稲村はきょうも左手でペンを持つ。身体をこちらに向けて、指はカルテの上を滑る。なにをそんなに書くことがあるのか。
「音楽を聴いたような気がします」
怜はひまわりの花びらを数えていた。数えながら、つぶやくように言った。
「音楽?」