夏の扉
真琴はだまってうなずく。
「あいまいな言い方をしたって、自分とちがう人間を、ひとは味方だって思ってくれない。敵だって思うのよ。そうすると、はじかれちゃうの。わたしたちみたいに。わたしは、明日香ちゃんも鳴海さんも、味方だって思ってる。だからわたしも明日香ちゃんや鳴海さんの味方のつもり」
「はじかれたものどうしってこと?」
「そうかもしれない」
「そうして傷をなめあうのね、わたしたちは」
「なれあいじゃないわ。じゃあ明日香ちゃん、ここを出て行ける? すくなくともわたしは、明日香ちゃんや鳴海さんがいなくなったら、誰もいなくなったら、生きていけないよ」
明日香はもう、茶々を入れようとしなかった。だまって真琴の目を見て、恐いくらいの顔をしていた。だから鳴海もだまって、真琴の横顔を向いた。視界のはしに、トマトの赤が鮮やかだった。
「それって、頼ってるってことかな、おたがいが」
明日香が言う。
「さあ。でもちがうと思う」
「もし、わたしなり鳴海さんなりがここを出て行くことになったら、真琴はどうするの」
スケッチブック、忘れ物、明日香の陶器のような肌。あの夜の会話。
「止める? 行かないでって」
「止めないよ。わたしたちって、そういう関係じゃないでしょう」
「なんか、言ってることが矛盾してないかな」
「してないよ」
「なれあいじゃない、傷をなめあってるわけでもない。頼ってるわけでもない。でも、誰かがいなくなったら、生きていけない。じゃあどうしたらいいの」
「わかんない」
「わかんない?」
「どうしたらいいんだろう。でも、もし明日香ちゃんがここを出て行くことになっても、わたしは止めないと思う。止める権利なんてないし、戻れる場所ができたから出て行くんでしょ、それは、きっといいことだと思う」
「わたしは出て行かないわ」
そう言って、明日香はちらりと鳴海を見た。瞳がかすかに、ゆれていた。
「たしかに、でも。真琴がいなくなったら、わたしは困るかもしれない」
「そう?」
「去年から作ってる家が完成しないもの」
「家?」
何の話かわからず、鳴海は明日香に訊いた。
「わたしたち、家を建ててるの。空想で。頭の中にね」
談話室でいつも顔をつき合わせて話している、その内容だろうか。はじめて聞いた。
「まず場所をきめて、まわりにどんなお店があるか調べて、設計図を書いてって」
真琴が答えた。
「つぎはどんな間取りをきめたり、壁の色や屋根の色を決めたり、どんな家具を置こうか考えたり。いまはまだ、ようやく家を建てる場所がきまっただけ。けっこう大変よ」
明日香は苦笑をにじませて、言った。彼女たちなりの、ここでの時間のすごし方。鳴海が部屋でぼんやり外を眺めたり、スケッチブックに描けない絵を描いているのと同じ、悲しい時間のつぶし方。
「わたしは、ここにいるわ。だから安心してよ、真琴」
そう明日香は言ったが、言外に鳴海の未来を指しているようで、鳴海は真琴の顔が見られない。夏休みの海を探しに行こう、明るく言った怜の顔が、瞬きするたびまぶたの裏に浮かんで、鳴海は目を閉じることができなかった。
三八、ナッツとシリアル
今夜は、街の明かりが見えない。
怜は十八号棟十五階のエレベーターホールから、旧市街を見下ろしていた。南十五街区の高層住宅を透かして、いつもは天の星をそのまま地上にばらまいたような夜景が見えるはずなのに、今夜はぱらぱらと指先でつまんで散らした程度のささやかな夜景だった。
停電だ。それも、旧市街全域におよぶ、大規模な。けれど驚くべきことではない。停電は日常茶飯事だ。かつて電力は、最大使用量を基準に供給されていたが、そんな芸当が今できるはずもない。化石燃料の枯渇、よしんば燃料があったとして、それを思うままに燃焼させられる世の中ではなくなっている。風力発電で全市の電力をまかなえるはずもない。戦争より二酸化炭素の無秩序な放出が悪であると叫ばれているのだ。だからひとびとは、停電に文句を言わなくなった。
ぱらぱらと灯ったままの明かりはたいがい、自家発電装置を装備している施設だ。小型のガスタービン・エンジンを利用したコージェネレーションや、新市街に近い場所では水素を供給して化学反応で発電する燃料電池が普及していて、悪しき停電からは解放されている。もちろん<団地>のすべての電力は自給されている。だから常夜灯がぼんやりと、エレベーターホールを照らしている。
耳の底に囁きかけるような空調の作動音。室温二二度。快適すぎる。単身者向けの<団地>はあんがい倍率が高かった。自分で認めたくはないが、すんなりとここへの入居が決まったのに環境調査員という肩書きが効いていないはずがない。黄昏の世界の番人、<機構>の末端であれ構成員である自分は、眼下で明滅する電灯を恨めしそうに見上げているだろう市民たちの姿を想像できても、実感できない。それは、沈みかけた街をさまよい、街が内包しているかつての住人たちの暮らしや、直接訴えかけてくる多くの「遺品」を見、過ぎた時間をたどることができても体感できないのと同じだ。
怜は片手にマーケットの袋を持って、エレベーターホールに突っ立っていた。もう、五分、十分。時間きっかりには閉店してしまうマーケットに、シリアルとはちみつを買いに行ったのは、もうすっかり日が暮れたあとだった。長い休暇に身体が慣れきってしまい、時間の感覚があやしくなっていた。だから、食糧が底をついていることに気づいたのは、午後ももう遅くなってから、そう、空を染めていた夕焼けが青藍のシェードにゆっくりとつつまれはじめてからだった。
<団地>の玄関口、地下鉄駅のすぐ前に位置するマーケットは、大規模ではなかったが品揃えはこの時代に豊富で、整理券なしに食糧が手に入れられるから、旧市街からもちらほらと客がやってくる。さすがに食糧が配給制になるような事態は<機構>が排除してくれているが、それでも入店客数を制限する店舗が多い中、前世紀のスーパーマーケットのようなシステムはありがたい。怜はコーンがメインのシリアルを二箱と、ドライフルーツを数種類、そしてナッツもいくつかと、はちみつを一瓶、ミルクを大瓶で一本買った。給食中の身だ、手持ちが少なかったから以前のように一週間分の食糧を一気に買い込むような真似はできなかった。それでも片手にあまる量にはなった。ドライフルーツを物色しているとき、怜はふと、果汁がはじけるトマトの触感を思い出していた。<施設>の屋上でかじった、あのトマトだ。だから怜は陳列線にトマトを探した。
夏はトマトの旬。ゴンドラには紅く熟れたトマトがぎっしりとつめこまれていた。加湿機が吐き出す霧を滴らせて、白々しい蛍光灯に照らされ、実験施設を思わせる陳列台に、びっしりトマトがつめこまれていた。怜はそのうちのひとつを取りあげて、蛍光灯にかざした。よくできたトマトだ。そんな感想を抱いた。そう、よくできてる。
<施設>の屋上でかじったトマトは、文句のつけどころがない味だった。ひさしく忘れていた味だ。でも怜は思う。
同じだ。
マーケットのゴンドラに並ぶトマトも、土のない畑で育ったトマトも、同じだ。