夏の扉
明日香は鼻白んで半開きの口から嘆息をもらした。
「べつに、なんでもないわ」
ふん、と明日香は鼻を鳴らしてトマトをひとつ、つまんだ。
「重いなぁ」
「いいできなんだって、今年は」
「『今年は』って、年中食べてるじゃない」
くるくるとトマトを手のひらでまわして、明日香は真琴に視線を向ける。
「水耕栽培だから。けど、やっぱり夏がいちばんおいしいんだって」
「そんなこと知らないわ。なにが楽しくてあんな植物園に入りびたってるのか、陰惨な子どもばっかり集まったものよね」
「そうかな」
「そうよ」
真琴は返事のかわりに、氷を口に含んで噛み砕いた。
「わたしには、どのトマトができがよくてどのトマトができが悪いのか、さっぱりだわ」
テーブルにトマトを転がし、両腕をだらりとたらして明日香が目を閉じた。鳴海は明日香が転がしたトマトをたぐり、手にとってみた。一個まるごとのトマトなんて、かじったことがない。すくなくともここに来てからは。
明日香がいうところの、あの環境調査員、怜の言葉を待つまでもなく、<施設>の食事はおいしいのだと思う。好きな食べ物も嫌いな食べ物もなぜか思い出せない鳴海でも、三食用意される<施設>の食事は嫌いではなかった。もちろん気分しだいでは自室にこもり、ケータリングも拒否することがある。けれど、たいていは談話室で、とる。おそらく子どもたちが育てた野菜と、食糧配達のおばさんが持ってくる肉や魚などの蛋白源といっしょに。
明日香は好き嫌いが多いらしい。まず、魚が食べられない。理由は知らないが、夕食が魚料理だったりすると、露骨に顔をしかめ、反対に魚が好きな真琴にプレートを押す。さらに明日香はトマトだけではない、野菜全般をあまりとらない。生野菜にいたってはプレートを空にしたことがない。いつも食事に同席するわけでもないが、鳴海は知っていた。彼女は声がよくとおるのだ。だから聞こえる。なにが食べられて、なにを食べられないか、真琴と言いあっている彼女の声が。
「きょうはチキンブロスだったよね」
トマトをかごに戻し、鳴海は明日香を見ずに言った。
「なにが?」
「お昼。明日香ちゃん、チキンブロスは好きなの?」
「お肉は好きよ。鳴海さんは嫌いなの」
「わたし、好きな食べ物とか、とくにないわ」
「へぇ、そうなの」
そっけない。明日香は食べ物に興味がないのだろうか。
「明日香ちゃん、野菜嫌いでしょう」
「好きじゃない」
「どうして」
「おいしくないから」
「身体に悪い」
「いまさら身体の心配してもね。心が病んじゃってるから、せめて身体だけでもってことかな?」
皮肉屋の明日香が向かいにいる。真琴はじっとグラスの氷が融けるのを待っている。
「それもあるわ。野菜は食べないとだめよ」
「鳴海さんは、野菜が好きなのね」
「そういうわけじゃないんだけど」
「わたしたしちが食べてる野菜なんて、ここで作ってるんでしょう。気持ち悪いもの」
「気持ち悪い? どうして」
明日香は鳴海の問いに言葉では答えず、ちらりと真琴に視線を走らせた。真琴は氷を融かすのに熱心で、明日香の視線に気づいていない。
「こんな時代に生まれて、あの子たちも気の毒ね」
椅子の背をきしませて、明日香は身体をくずした。
「しかも、こんなところに押し込まれて。気の毒だわ」
セリフが棒読みだった。敵意すら感じられる口調だが、明日香がなぜそこまであの子どもたちを嫌っているのかがわからない。たしかにつかみどころがなく、鳴海もろくに口を利いたことがなかったが、それはつまり、好く嫌うといった人間関係が形成される以前の問題だからだ。明日香が子どもたちと何かあったわけではあるまい。鳴海の知るかぎり、<施設>の人間関係は単純で、同年代の入所者が群れる傾向がある。だから自分たちと子どもたちが積極的に交流することはあまりない。初等課程の教師よろしくオルガンを弾いて子どもたちと歌う真琴は、むしろ例外だった。
「真琴」
グラスにまで上目を遣っていた真琴が、明日香に呼ばれてようやく顔をあげた。
「あの子たちさ、好き?」
「な、なにが?」
「子どもたちがいるでしょ、温室に入りびたってる」
「うん」
「好き?」
「好きよ」
「なぜ」
「なぜって言われても」
「ときどき音楽室で歌唄ってるじゃない、楽しい?」
「わたしはオルガン弾いてるだけだけど」
真琴は手のひらのグラスをテーブルに戻す。小さな手だった。楽器にはおよそ不向きの。
「いっしょに歌わないの?」
「わたし、歌うのは苦手だから」
「へぇ。で、どうなの、あの子たちのこと、どうして好きなの?」
たたみかけるような明日香。
「……わたしたちに似ているから」
「わたしたち? わたしたちって誰?」
「わたしや、明日香ちゃんや、鳴海さん」
くるりと明日香を見、鳴海を向く。大きな目は瞬きをしない。鳴海は真琴の目に吸い寄せられるような錯覚を感じる。
「似てる? わたしたちが? どこが」
明日香はテーブルにのりだすようにして真琴につめよる。
「帰る場所がないのは、おなじでしょう。あの子たちも、帰るところがないのよ」
「そんなの、ここにいる全員がそうでしょう。べつにあの子どもたちにかぎったことじゃない」
「違うわ」
「なにが」
「あの子たちは、わたしたちよりずっと小さいもの。わたしや明日香ちゃんが高等科にいたとき、あの子たちはまだ生まれたばっかりよ。いまだって、世界の半分も知らない」
「わたしたちだって、世界の三分の二も知らないわ」
「でも、半分は知ってるつもりになってるでしょう。違うよ」
グラスの氷はまた少し融けたようだ。真琴は融けたばかりの氷だった液体を、口に運んだ。
「あの子たち、ここしか知らないのよ。<施設>だけ。自分の家がないのよ」
「わたしもないわ」
「明日香ちゃんは、ここに来る前があるでしょう。学生だったし、自分の家に住んでたことだってある。あの子たちは、物心ついたときから、ここにいるのよ。変なものを見たとか、毎朝気持ちが悪いとか、ほかの子たちとなじめないとか」
「そんなの、誰だって経験あるでしょ」
「ちがうちがう。明日香ちゃん、どうしてここにいるの? わたしはどうしてここにいるの? 鳴海さんは、どうしてここにいるの? ここはどこなの?」
ここは、<施設>だ。外とはちがう。あの環境調査員、怜が通ってくる、<街>ではない。
「そう考えてよ。わたし、あの子たち見てて、自分の小さかった頃を思い出した。わたしね、すぐに突拍子もないことを言いだして、まわりのひとたちを困らせてたのよ。だって、その人が何を考えてるのか、ぜんぶわかっちゃうんだもの。わかってるから、先回りしてどんどんしゃべるでしょ、すると、そのひと、困った顔をして、話すのやめちゃうの。『おかしな子ども』って顔して。それで、ここに来ちゃった。誰もわたしの味方じゃなかった。だからね、わたしはあの子たちの味方でいたいって思ったの」
数日前の明日香が重なった。怜の前で、病んでいく自分を語った、明日香の顔が。
「味方、ね」
「そうよ。味方でなければ、敵だもん」
「そんな単純かな」
「明日香ちゃんならわかってくれると思うんだけど」
「味方でなければ、敵だってこと?」