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夏の扉

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 それは隆史が描いた「絵葉書」だ。彼に託された一束の手紙。郵政公社を頼れなかった、鳴海の兄。さりとて自ら手渡すこともできなかった、彼。風車がまわる屋上での出会い、紙飛行機(やはり、紙だ)、描かれた世界。隆史の字で書かれた妹の名は、それもまたひとつの風景にも見えた。そして知った。彼女が「鳴海」という字で描かれていることを。封筒に細く達者な筆致で、「鳴海へ」と。そこには隆史の感情がつめこまれていた。怜には見える。フライトを終え、空から地上に戻って間もない隆史が、雲やジェット気流の匂いがたっぷりとしみた身体を折り曲げ粗末な作り付けのスティール・デスクに向かい、、ペンを封筒に走らせている風景が。
 怜は考えた。自分が誰かの名を思いをこめて書いたことなどあっただろうか、と。
 ない。
 おぼえているかぎり、ない。
 広げた地図の上に、人差し指で書いてみる。海の上に、「鳴海」と。固有名詞なのに場所の名ではない。人につけられた呼称でもない。それは、イメージ、風景そのものだ。<施設>の中庭を、青い芝の上を、地雷を探して歩くように頼りなかった彼女、はじめて訪れた待合室で、煙草をすすめてくれた白い肌。
 嘆息、街といっしょに夕暮れどきの倦怠を吐き出す。季節は夏の真ん中へ。街路灯が点灯し、群がっていた鳩はもういなかった。いったいどれくらいベンチに座っていたのだろう。結局怜は、海の上に書いた彼女の名を読むことができなかった。指先で書いた字を、読めるはずもなかった。
 稜線はまだ明るい。見上げる空に、光点。軌跡を残すそれは、きっと人工衛星。金星はこの角度では見えないはずだが、うるおぼえの知識ではどうにも判別できない。明日香なら解説してくれるだろうか。きっと質問には最初、まともには答えてくれないだろう。いちど怜をはぐらかしてから、さも当然というふうに言うのだ。
(環境調査員なのに、天文の知識もないのね。宵の明星は西の空よ。あなたが見ているのは、正真正銘人工衛星ね。金星がこんなスピードで動くと思う? わたしでよかったら、星の話でもしてあげようか?)
 怜は苦笑する。真琴も苦笑する。老婦人がマグカップを片手に少しはなれた窓辺にいる。あの読書青年も見える。そして、白い肌の彼女が困惑気味にたたずんでいる。
 風がとおる。半袖には涼しすぎるくらいの、夕の風。不意に怜は緯度を実感する。ここはまだ、北緯四三度の街なのだ。いくら季節が狂いはじめていても、ここは、北の街だ。やがて冬を探して旅に出る時代が来るかもしれないが、まだ怜は冬を知っている。雪に閉ざされる冬を。けれど、今は夏だ。冬があるから、夏を感じられる。
 怜はひざの上に広げた地図をたたんだ。そろそろ帰ろう。誰も待つもののいない<団地>の一室でも、自分の場所には変わりない。戻る場所、戻るべき部屋だ。
 立ち上がり、鳩たちがむさぼったトウモロコシの芯をつまみ、ゴミ箱へ放ると、地下鉄の駅へとまだぼんやり明るい稜線に背を向けた。

 その日、鳴海は昼食を談話室ですませた。午前の天気通報を聴いた明日香が、太平洋高気圧が例年になく勢力をたもち、首都ではもう一週間、熱帯夜が続いているのだとなにやら憂鬱な顔をして言った。まるで彼女が湿度百パーセントの水上都市の住人であるかのごとく。真琴はぼそりと、(暑いのは嫌い)とつぶやき、給湯室の冷凍庫から、グラスいっぱいの氷水を持ってきて、ちびちび飲んでいた。鳴海はテーブルの上のかごに積まれたトマトの表面をなでていた。子どもたちが屋上で育てているトマトだ。真琴は子どもたちから直接トマトを受け取っていたが、彼女はトマトが食べられない。断ればいいものを律儀に受け取り、冷水で冷やしたあとかごに入れて食後のテーブルにおいた。読書青年が意外にも一番手にトマトを引っつかみ、自室に消えた。いつもチェス盤をはさんでいるふたり組みの片方が、真琴に何事か言って、三つほど持っていった。明日香は手をつけようとしなかった。どこかで明日香は子どもたちを嫌っている。いつか彼女がこう言った。(お人形さんって、無気味だから苦手ね、わたし)。たしかにここの子どもたちはつかみどころがない。真琴のオルガンに合わせて歌を歌ったり、声を立てて笑う無邪気な顔の向こうに、見えない無意識が存在しているのだ。皮膚をうすい膜でおおうと、針の先でつつかれても一瞬刺激の到達が遅れるように、子どもたちは淡い色のベールをまとって、稲村や老婦人や、そして自分たちと距離をたもっている。
 つるつるしたトマトの表面をなでているうち、真琴が二杯目の氷水を飲み干してしまった。風力発電と太陽光発電で自給自足している<施設>にとって、電力はけっして潤沢ではないから、エアコンはほとんど稼動していない。盛夏には全館が冷房されるが、その際は消灯時間が早くなる。午後十時以降は、個人の部屋のエアコンはカットされる。鳴海は暑さがそれほど苦にならないが、真琴はこれからの季節、ハンカチを手放さなくなる。明日香はまさに涼しい顔をして汗だくの真琴をからかって笑う。自分も汗をかきながら。
 階段の踊場の窓が全開になっている。談話室の窓は半分が開いている。風が抜けていく。心地いい。鳴海はテーブルにつっぷして、トマトをなでていた。どうしてこんな赤が自然に彩られるのだろうか。
「鳴海さん、食べないの?」
 向かいに座った明日香が訊く。これまでなら真琴と顔をつき合わせてなにやら話し込むのが彼女の日課だったのに、ポートレイトを描いて以来、明日香は食事が終わっても席を立たなくなった。かといって鳴海に話題をふるわけでもない。ただなんとなく、席を立たずに鳴海と相席しているだけ、そんな雰囲気。真琴が何か話せばそちらを向く。
「トマト」
 細い指をおおげさにつきだして、明日香はトマトをつっついた。
「おなか空いてないから」
「苦手なんでしょ、わかるわ。わたしもだから」
「そんなことはないけど」
「真琴は食べないの?」
 切れ長な瞳を真琴に向ける。真琴は両手をふりまわして否定のサイン。明日香の冷笑が追随する。
「においがきついのよね、ここのトマト」
 たしかに、ふつうに座っていてもトマト独特のにおいがする。
「味は悪くないんだけど、でもサラダに入ってるだけで十分だな、わたしはね」
 鳴海はトマトが嫌いではない。けれど好きでもない。好きな食べ物は何かと訊かれても、鳴海は即答できない。何が好きなんだろう、わたしは。
「でも真琴さ、ずいぶんと気に入られたものよね」
 なにが? と問う上目遣い。
「あの子たち。名前なんていったっけ、あのふたり。男の子と女の子の」
「背の高い?」
「ちがうちがう、ほら、いつもふたりくっついて、屋上に行くじゃない」
「沙耶香ちゃんと翔太君?」
「かな、よく知らないけど、名前聞いたって。あの子たち、いったいいくつ?」
「初等課程の三年生じゃなかったかな」
「じゃあ、九歳くらいか。ませてるよね、あのカップル」
 明日香が子どもたちを「カップル」と言ったのが真琴は可笑しかったらしく、鼻を鳴らすように笑った。
「カップルカップル。所内恋愛はやっかいよ」
 真琴はますます笑う。鳴海も誘発されて気がつけば笑っていた。
「鳴海さんまで。なにが可笑しいの?」
作品名:夏の扉 作家名:能勢恭介